(295) Honaloochie Boogieの続き。
日本語と英語との最大の違いは2つある。
1つ目は、漢字仮名交じり文。これについては、これまで散々書いてきた。
(書庫フォルダ、「漢字仮名交じり文は日本の宝」をご参照ください)
2つ目が日本語の主語の省略。
日本語の歌や詩のように、文字制限がある中で最大限メッセージが詰め込まれている文章には、特にこの違いが現れる。
イエモンの吉井さんの和訳は、天才的だと思う。Honaloochie Boogieの英語と日本語の歌詞をもう一度見返してみる。ここでは単純に、"I"と、"俺"という、一人称の主語の数を比較してみる。
(英語)Mott the Hoopleの歌詞
私の数え間違えじゃなければ、1人称"I"の数は10個。
(日本語)イエモンのカバー版の歌詞
それに対して、1人称は最初の所の『俺』の1個だけ。
その数、実に10分の1。
単純計算で、人生で同じ比率で1人称を言うと仮定すれば、アメリカ人と日本人とで、1人称"I"、日本語なら"私"と言う回数が、10倍違うと言う事になる。
この差は、相当、人格や性格形成に影響を与えるはずだ。
日本人の自我が弱い事の一因じゃないかと思うくらい。
同時に、上述した歌を比較すると、イメージが全然違う。
Mott the Hoopleの方は、"I"と出て来る回数が多いので、目線が固定される。
つまり、これは"I"という人にとっての話であるというメッセージが強化される。
対照的に、イエモンの方は、『俺』が最初の一回だけなので、主語を自由に想像できる余地がある。
(頭の中で)主語を「俺」にもできるし「俺達」にもできるし、多分「君達」でもイメージできる。
さらに、時制がないので、「昔の」かもしれないし、「今の」かもしれないし、「未来の」かもしれない。
英語のMott the Hoopleの方は、最初の方は過去形で、途中が現在形だったりしているが、時制が固定されているので、想像が入り込む余地が日本語よりも断然少ない。
これこそが、(英語と比べた時の)日本語の強みでもあり、弱みでもある。あいまいさを残すからこそ、想像力の入り込む余地がある。だから、歌の場合なら、何度聞いても、毎回違う想像を楽しめる。私は、この、Honaloochie Boogieは、オリジナルの英語版を、日本語版の方が凌駕しているように思う。
一方で、その『想像が入り込む余地』は、時々、主語を「(意図的に)あいまいにする」というコミュニケーションを有効にしてしまう。
「みんなお前の事、最近感じ悪いって言ってるよ」
「最近、評判悪いよ」
みたいな事を言われた時、なんとなく嫌な気分になる。
これを言われた時、日本人の多くの人が、世間や空気に負けそうになる。
でも、そう言う時は、
「え?みんなって誰?」「誰が言ってたの?」
「お前は俺の事をどう思ってるの?」
と満面の笑みを浮かべて、相手の眼を見て聞いちゃえばいい。
要するに、日本語の、主語や目的語を明確にしないと言う特徴に起因するアイマイさ、誤解は、
「主語」(と目的語)を注意して入れれば済む話であって、日本語を使う時に気をつければ、
ある程度は何とかなる。
でも、英語は主語を省略する事が許されない言語なので、逆パターンは難しい。
このように考えると、我々は日本語をもっと上手に駆使できる可能性があるのかもしれない。
そう言えば、村上春樹の文体は、英語の翻訳文みたい、という話を聞いた事がある。
もしかすると、主語や目的語を明確になさっているのかもしれない。
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