2016年11月25日金曜日

(295) Honaloochie Boogie

イエモンの中で大好きな曲だった
 
『Honaloochie Boogie』
 
アラフォーのサラリーマンの私、さらにあと最低25年はサラリーマンにしがみつかなきゃならない自分の心を、
「ボロは着てても心は錦』
と、これ以上の言葉がないくらいの歌詞で歌ってくれている。素晴らしすぎる。
 
昨日初めて知ったんだが、これってカバー曲で、オリジナルはMott the Hoopleというイギリスのロックバンドだそうだ。
http://omnivorous.at.webry.info/201104/article_6.html
 
Mott the Hoopleの方も思わずダウンロードしてしまった。歌詞は以下。
https://genius.com/Mott-the-hoople-honaloochie-boogie-lyrics

15年前はこんな事できなかった。イエモンのCDを何度も聞いていたが、当時はまだインターネット接続も遅く、1時間xxx円、みたいな感じだった時代。15年しか経ってないのに、いろんな意味で昔と今は環境が違いすぎる。

仕事柄、イエモンの吉井さんの「和訳」に興味惹かれる。吉井さんは、歌詞の和訳と同時に、音楽や歌の雰囲気とかもアレンジされた訳だから、ここまで来ると「和訳」ではなくて、「原曲へのオマージュによる新しい歌の創造」と呼んだ方がいい気がする。
 
最近は、別の「尚史」さんが世間を騒がせているようだが、
『音楽劇 リンダリンダ』という素晴らしいジュークボックスミュージカルを作られた天才劇作家の鴻上尚史さんに、
『音楽劇 太陽が燃えている』とか、いつか作ってもらえないかな、とか思ってしまった。
 
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和訳(多分、自動翻訳)のサイトを見て、思わず吹き出してしまった。

(リンク無効のため削除2020/10/13)

元々の英語も解らないが、こっちの和訳の方はもっと意味不明だ。
 
和訳、英訳の作業は、多分自動翻訳では当面の間は難しいと思う。
ニュワンス、文化の背景とかをベースに、それぞれ英語の世界、日本語の世界に合わせるという作業は、
脳は結構複雑な事をやっているんだろう。
 
最近気付いたが、高レベルの感情に関わる翻訳(このような歌や映画字幕なんかが典型)に関しては、基本的には母国語側への翻訳しかできない。つまり、『日本語の字幕』で飯を食える人は、多分母国語が日本語の人に限られ、日本小説(例えば村上春樹とか)の『英訳版』が書ける人は、母国語が英語の人に限られるだろう。
 
それをコンピュータが置き換えられるようになるのは、相当先の話になると思う。
それが起こるより前に、多分、世界の文化・言語の画一化が進む方が先だろう。
 
キリスト教の『バベルの塔』の話ではないが、人間同士で言葉が通じなかった時代から、今は逆方向に進んでいる気がする。英語が世界での公用語になろうとしているのはその典型。でも、本当に世界の言語が画一化する時が来るなら、人間は人間らしく生きる事を諦める時かもしれない。

ちょっとだけ規模を小さくしてみれば、例えば『関西弁』などの方言は、今も残っているし、今後も残るだろう。標準語(東京弁)の侵略を受けていると感じると、自然に、『お国言葉を大切にしたい』と人間は感じるものなんだろう。
 
そう考えると、私の危惧、『少子化が進み過ぎれば、いつか日本語が絶滅する』というのは、恐れすぎだったのかもしれない。関西は経済的には元気がないが、『関西弁』は今もあちこちで元気であるのと同様、日本が経済的にダメになっても、『日本語』は、案外頑張るのかも。ただし、その残り方は、英語の中に日本語が溶け込む(mottainai, Kaizenみたいなイメージ)という形かもしれないが。
 
 
Honaloochie Boogieの吉井さんの和訳に関しては、このブログでおっしゃっている通りだと思う。

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