養老先生の本に書いてあった考え方だが、世の中で「対義語」と呼ばれているものは、実は「補完語」と考える事もできる。
例を上げれば、
例を上げれば、
上下、左右、内外、高低、貧富、格差と平等、好き嫌い、男女、大人と子供・・・
いずれも、一方の概念がないと、もう一方の概念は成立しない。その意味で、お互いを補完し合っている。
「世間」という英訳不可能な言葉、私は、この言葉は、「家族」の補完語じゃないかと考えている。つまり、「家族」があるから「世間」があり、「世間」があるから「家族」がある。
今の日本では、現在進行形で、「家族」が崩壊して行っている気がする。だから、同時に、「世間」も崩壊して行っている。補完語である以上、一方が崩壊すれば、もう一方も崩壊する。鴻上さんが、「世間」が一部崩壊、流動化して「空気」になっている、と著書で指摘されているが、この説明には納得性がある。
私の不安は、このままで大丈夫か?というものだ。
世界で8割を占めていると言われている、一神教を信じる人達は、その一神教が心の拠り所になっている。アイデンティティの奥底に、「一神教」があるような気がする。
これまで、日本人の多くの人は、「家族」が、拠り所だったんじゃないだろうか?そして、今も多分そう。墓参りの習慣、帰省ラッシュ、皇室の継承問題、お家騒動、などなど、日本人は「家族教」的な信仰心を持っている気がして仕方がない。
それを崩壊させて、アイデンティティが保てれば別に問題はないが、サザエさんが日本人だけに通用するお化け番組である事が今も継続している事に象徴されるように、やはり、日本人、そこから離れられないんじゃないだろうか。家族以外の拠り所を無理に探そうとした結果、オウム真理教のようなカルト教団が日本で生まれてしまった可能性もあるんじゃないか、と考えたりもする。
私個人としては、2人の息子達の父親になって以降、「家族」への回帰を強めている。それが良い事なのかどうかは解らないが、少なくとも、私と、私の家族の幸せを考えた時には、自分に合った、一番いい方向のような気がしている。
日本全体がこれからどうなるか?それは私には解らない。でも、今の日本の閉塞感を打破する一つの案として、「家族への回帰」を強調する事、間違ってないんじゃないか、という気がしないでもない。
2 件のコメント:
辛いことだが、家族への回帰が行き詰まってしまった。
仕事がうまくいかず、休みに楽しい気持ちになれず、父親としてダメダメな状態がずっと続いてしまっている。
家族を補完する世間は、私にとっては「社会人としての仕事」に思える。それがうまくいかないと、補完する側の家族もうまくいかない。
30代の頃の俺、甘かった。間違っていた。
まだ前を向いて歩けない。あんまり信じたくないが、大殺界は再来年まで続く。それまでは私にとっての冬の時代。無理して変えようとしない方がいいような気がする。
しばらくは我慢、耐える、無理しない。
仕事を休んで休息してから1ヶ月半になる。
大黒柱の給与収入はなくなる、次に働く所はまだ探せる状況にないという、客観的に考えれば非常に危機的な状況。
しかし、休息と充電に集中させてもらえているおかげで、冷静な思考、情報収集力、自分自身に向き合う力など、基礎体力とメンタルがかなり回復している。
そのおかげで、家族と過ごせる時間、妻と話す時間、妻に教えてもらって家事をする時間がとても幸せで、充実感がある。
自分にとっての家族の補完概念は給与をもらう仕事であり、働く事だと信じ込んでいたが、どうも必ずしもそうではないらしい。
勿論、可能な限り早く回復して、家族を養う給与を稼ぐ当たり前の姿に戻らねばならないのだが、今は家族のありがたみを噛み締め、自分の状況を話し、助けてくれる人達に深く感謝しながら、自分自身の心身をしっかり回復させ、ストレス耐性やレジリエンスを高める事に全力を尽くしたい。
家族に許してもらい、世間にも許してもらう。家族に感謝し、世間にも感謝する。回復できたら、家族に恩返しし、世間に恩返しする。
その将来像のために、今はしっかり回復する。
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