2016年11月24日木曜日

(232) 大阪レジスタンス

前回の記事に続き、大阪レジスタンス(桂三枝さんが作られた、創作落語)
 
この話を、昭和61年10月に作っていた、三枝師匠の鋭さ、先見の明に脱帽。
これ、今こそ、もう一度スポットライトを当てられるべき、素晴らしい作品だと思う。
 
昭和61年と言うと、俺はまだ11歳、関西にいた。
俺自身の小学校、中学校時代の記憶を遡ると、多分当時のお笑いは、
 
「吉本新喜劇」(かんぺーさんが、「わしゃ止まると死ぬんじゃ」って言って、杖振り回してた)
「俺達ひょうきん族」(たけしさん、さんまさん)
「8時だよ!全員集合」(ドリフターズ)
などを、夢中になって見ていた記憶がある。
 
「たけしさん、さんまさん、タモリさん」がビッグ3と言われ、
3人とも笑いの質、アプローチ、表現方法等が違ったが、本当に面白かった。
 
多分、このくらいの時代に、「懐の広い東京による浸食」が始まったんだろう。
つまり、大阪から、お笑いの優秀な人材の引き抜きと同時に、
大阪のお笑いを東京が飲みこんで行ったんじゃないだろうか?
吉本興業の東京進出ともイメージが重なる。
 
昔は、「お笑い界のスター」というのは、雲の上の存在だったが、
今は、お笑い芸人自体が庶民化した。
有名人の多くがブログをやってるぐらいだし。
 
「一発屋」と笑われる事を理解した上でCMとかに出る人がいると言う事も、
それだけ、お笑い芸人という職業自体が、大衆化した事の証明だろう。
 
東京という巨大都市は、「東京人らしさ」というものが実は存在しない。
「宵越しの金は持たない」という古来の東京人は、「江戸っ子」と呼ばれるが、「東京っ子」とは言われない。
つまり、両さんや、寅さんみたいな「下町」の人は、東京人ではあるんだけれども、
「すかした山の手の東京人達とは違って、人情味がある」という意味で使われる。
 
もっと言うと、その下町のど真ん中には、「スカイツリー」というバカでかい塔が立ち、
付近の地価を上げてしまう方向に開発が進み、
その「下町らしさ」を残した地域すら、「おしゃれな街」に変えてしまうという動きだ。
しばらくは外国人観光客も大好きな、浅草寺が踏ん張って下町の情緒を残そうとするだろうが、
「東京」による画一化は、いずれは「東京の下町」すら飲み込んでしまうだろう。
 
そして、日本全国を見ると、「東京人らしさ」という言葉ではなくて、
「標準語」という画一化のバケモノみたいな言葉が、
今や日本中を席巻しつつある。
 
大阪の「お笑い」すら飲みこんでしまい、
今や、「お笑い文化」は東京人の中に取り込まれた。
 
だが、だからこそ、日本人は世界に比べると、「お笑い」に対しての寛容さがある。
女性のお笑い芸人のネタは、海外の人は笑えない。
「シャレ」にならないからだ。
つまり、大阪のお笑い文化は、既に東京による画一化に取り込まれ、
生き残ったと考えていいだろう。
それは、「お笑い文化」が素晴らしいからだ。
 
さて、じゃ、この画一化の先に何があるのか?
お笑いを吸収し、今、東京は、「アメリカ」或いは、「欧米」を吸収しようと、
とんでもない事を考えている、そんな気すらする。
 
・・・しかし、もう、人間の脳の許容限界を超えちゃってるんじゃないか?
 
だから、「新しいもの、脳にとって快適な文化をヨソから吸収する」という、
際限のない欲求に日本人皆が捉われてしまい、
アイデンティティ崩壊の危機に瀕しているんじゃないか?
だから、年間の自殺者が高止まりしたままなんじゃないか?
 
さて、どこへ戻るか。
「世間」しかないだろう、やはり。
 
以前、「世間」を突き詰めて考えたら、「家族」が出てきた。
「家族」があるから「世間」があり、
「世間」があるから「家族」がある。
個人がない日本人は、「家族」「世間」がないとIdentityが保てない。
日本語をしゃべり続ける限り、言葉の特徴から、「個人」は日本人には育ちにくい。
 
人間は一人では生きられない。
自分が死んだあと、「何かが残る」という気持ち以外、俺は死の恐怖から逃れる術はないんじゃないかと思う。
 
「何を残すのか」
自分達の子孫だ。
つまり、最終的には生物としての本能、「親」に帰結する。
 
日本人の多くも遅かれ早かれ、
「自分を大切にして、自分の子孫を作らない」⇒少子化
という状態が続けば、自分達の種族が絶滅する事に、きっと気付くだろう。
 
俺が本能で、「このまま少子化が進むと絶対やばい」と強い恐怖感、
それに伴う使命感を強く感じているのは、多分必然なんだろう。
俺の脳の中の本能が、俺を突き動かしている気がする。
 
そう私は考える。

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