前回の記事に続き、大阪レジスタンス(桂三枝さんが作られた、創作落語)
この話を、昭和61年10月に作っていた、三枝師匠の鋭さ、先見の明に脱帽。
これ、今こそ、もう一度スポットライトを当てられるべき、素晴らしい作品だと思う。
昭和61年と言うと、俺はまだ11歳、関西にいた。
俺自身の小学校、中学校時代の記憶を遡ると、多分当時のお笑いは、
「吉本新喜劇」(かんぺーさんが、「わしゃ止まると死ぬんじゃ」って言って、杖振り回してた)
「俺達ひょうきん族」(たけしさん、さんまさん)
「8時だよ!全員集合」(ドリフターズ)
などを、夢中になって見ていた記憶がある。
「たけしさん、さんまさん、タモリさん」がビッグ3と言われ、
3人とも笑いの質、アプローチ、表現方法等が違ったが、本当に面白かった。
多分、このくらいの時代に、「懐の広い東京による浸食」が始まったんだろう。
つまり、大阪から、お笑いの優秀な人材の引き抜きと同時に、
大阪のお笑いを東京が飲みこんで行ったんじゃないだろうか?
吉本興業の東京進出ともイメージが重なる。
昔は、「お笑い界のスター」というのは、雲の上の存在だったが、
今は、お笑い芸人自体が庶民化した。
有名人の多くがブログをやってるぐらいだし。
「一発屋」と笑われる事を理解した上でCMとかに出る人がいると言う事も、
それだけ、お笑い芸人という職業自体が、大衆化した事の証明だろう。
東京という巨大都市は、「東京人らしさ」というものが実は存在しない。
「宵越しの金は持たない」という古来の東京人は、「江戸っ子」と呼ばれるが、「東京っ子」とは言われない。
つまり、両さんや、寅さんみたいな「下町」の人は、東京人ではあるんだけれども、
「すかした山の手の東京人達とは違って、人情味がある」という意味で使われる。
もっと言うと、その下町のど真ん中には、「スカイツリー」というバカでかい塔が立ち、
付近の地価を上げてしまう方向に開発が進み、
その「下町らしさ」を残した地域すら、「おしゃれな街」に変えてしまうという動きだ。
しばらくは外国人観光客も大好きな、浅草寺が踏ん張って下町の情緒を残そうとするだろうが、
「東京」による画一化は、いずれは「東京の下町」すら飲み込んでしまうだろう。
そして、日本全国を見ると、「東京人らしさ」という言葉ではなくて、
「標準語」という画一化のバケモノみたいな言葉が、
今や日本中を席巻しつつある。
大阪の「お笑い」すら飲みこんでしまい、
今や、「お笑い文化」は東京人の中に取り込まれた。
だが、だからこそ、日本人は世界に比べると、「お笑い」に対しての寛容さがある。
女性のお笑い芸人のネタは、海外の人は笑えない。
「シャレ」にならないからだ。
つまり、大阪のお笑い文化は、既に東京による画一化に取り込まれ、
生き残ったと考えていいだろう。
それは、「お笑い文化」が素晴らしいからだ。
さて、じゃ、この画一化の先に何があるのか?
お笑いを吸収し、今、東京は、「アメリカ」或いは、「欧米」を吸収しようと、
とんでもない事を考えている、そんな気すらする。
・・・しかし、もう、人間の脳の許容限界を超えちゃってるんじゃないか?
だから、「新しいもの、脳にとって快適な文化をヨソから吸収する」という、
際限のない欲求に日本人皆が捉われてしまい、
アイデンティティ崩壊の危機に瀕しているんじゃないか?
だから、年間の自殺者が高止まりしたままなんじゃないか?
さて、どこへ戻るか。
「世間」しかないだろう、やはり。
以前、「世間」を突き詰めて考えたら、「家族」が出てきた。
「家族」があるから「世間」があり、
「世間」があるから「家族」がある。
個人がない日本人は、「家族」「世間」がないとIdentityが保てない。
日本語をしゃべり続ける限り、言葉の特徴から、「個人」は日本人には育ちにくい。
人間は一人では生きられない。
自分が死んだあと、「何かが残る」という気持ち以外、俺は死の恐怖から逃れる術はないんじゃないかと思う。
「何を残すのか」
自分達の子孫だ。
つまり、最終的には生物としての本能、「親」に帰結する。
日本人の多くも遅かれ早かれ、
「自分を大切にして、自分の子孫を作らない」⇒少子化
という状態が続けば、自分達の種族が絶滅する事に、きっと気付くだろう。
俺が本能で、「このまま少子化が進むと絶対やばい」と強い恐怖感、
それに伴う使命感を強く感じているのは、多分必然なんだろう。
俺の脳の中の本能が、俺を突き動かしている気がする。
そう私は考える。
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