トイレの神様(植村花菜さん)で思い出したが、この曲で、
植村さんがおばあちゃんに会った翌日、おばあちゃんが亡くなって、
「まるで私が来るのを待っていてくれたように」とあるが、
俺自身、似たような事を経験している。
3年前に、千葉に住んでいた、伯父さん(6人兄弟の5番目のオヤジの、すぐ上のお兄さん)が亡くなった時の話。
ちょうどお袋がオヤジの入院が続いた事で参ってしまい、パニックになって大騒ぎして医療保護入院、
その後オヤジが先に退院、さらにその後お袋も退院して1カ月くらい経った頃、
伯父さんがあまり調子よくない、という話を、聞いていた。
俺がたまたま土日を利用して、静岡の二人の様子を確認するために帰った時、
その時点で、まだオヤジは病み上がりで、しかも、
お袋のパニックを、程度の差こそあれ知っているオヤジ方の親戚の目が気になる事もあり、
伯父さんの状況が気になりつつも、静岡から千葉まで行くのを躊躇している様子だった。
多分オヤジ自身、「自分と妻がもう少し元気になってから」、
実の兄である伯父さんに会いたいと言う思いがあったんだろうと思う。
俺は、どうせ神奈川の家に帰るついでだったという事もあり、レンタカーの座席が空いてるから、
オヤジに土曜日に話して、
「オヤジとお袋、ついでに、オヤジの近所に住んでいる叔母さん(オヤジの妹)乗っけて、千葉まで送ってくよ」
「帰りは新横浜でサヨナラで良ければ」
と提案して、結局、日曜日の朝、大雨の中、静岡から千葉の伯父さんの家まで3人を乗っけてった。
4~5時間くらいかけて千葉に行く途中、首都高では、
お袋と叔母さんは「六本木ヒルズだ~」「東京見物だ~」みたいに笑っていた。
こういう時、オバちゃんは逞しい。
そんで、昼過ぎ、千葉の伯父さんの家に着いた。
そしたら、伯父さんは癌の進行が早かったらしく、もう、全然喋れない状態、
伯父さんの奥さんが献身的な介護をしていたが、もう長くないのは、俺の目で見ても明らかだった。
オヤジが、「XX(オヤジの下の名前)が来たぞ~」と、
伯父さんの耳元で大声を出してから別れたのが記憶に残っている。
3人を新横浜まで送り届けた後、俺はレンタカー返して神奈川の自分の家に帰宅。
そしたらその夜11時過ぎ、オヤジから、「XX兄さんが息を引き取った」と連絡があって、
その翌々日にお通夜。
通夜では、親戚は皆「虫の知らせだったんだ」と言っていて、
オヤジからは後になって、「お前のおかげでxx兄さんの死に目に会えた」と感謝された。
だが、状況を考えて、多分、伯父さんはもう喋れない状態ではあったけれども、
実の弟と妹である、オヤジと、叔母さんが来た事は分かって、ホッと安心して(?)、
その日に息を引き取ったんだろうと思う。
伯父さんは、トイレの神様の歌詞にあるような、「はよ帰り」と言えるような状態ではなかったが、
「オヤジと叔母さんを待っていた」という意味では、多分そう言えると思う。
「親の死に目に会えない」と言うのは、やはり、子供としては辛いことだと思う。
でも、多分、この伯父さんのケースを考えても、世の中では、
「死ぬ人が、自分の家族を見るまで死なずに頑張って生きる」みたいなケースは、
山ほど起こっていると思う。
そして、その死んだ人と、その後も生きていく人との繋がりが強ければ強い程、
多分、残されていく側の人にとって、別れは辛いんだけれども、きっと、
「自分が来るのを待っていてくれた」という、『トイレの神様』の歌詞にあるような気持ちによって、
その後頑張って生きていく力を与えてもらうという事が、結構起こるんじゃないかと思う。
実際、俺は伯父さんのお通夜しか出なかったが、
オヤジは、千葉での伯父さんの通夜と本葬両方に出るために、
俺が代理で出ると言ったにもかかわらず、
お袋と二人で新幹線乗り継いで千葉に一泊して、通夜も本葬もきちんと出た。
通夜の日には、「『かかりつけの先生から、どんな事があっても千葉での葬式に出れるようにする』みたいな事を言われたから俺は絶対に大丈夫」という趣旨で、俺の本葬への代理出席の申し出を断った。
その時、まあ多分オヤジ本人は、慢性白血病の病み上がりだったので、しんどかっただろうし、
お袋も、自分のパニックの事を薄々感づいているオヤジの親戚たちの前で、肩身の狭い思いをしただろう。
でも、オヤジは、相当なエネルギーを持っていたと言うか、
死んでたまるか、みたいな、強い顔つきをしていた気がする。
これは間違いなく、死んだ伯父さんの事を思う気持ちから生まれていたと思う。
葬儀場での伯父さんのお通夜の時、いかにも葬式仏教っぽい、
いかにも流れ仕事で、棒読みのお経を呼んでるお坊さんに、俺はなんとなく腹が立ったが、
やはり、葬式というのは、いろんな意味で必要だと言う事も感じた。
でも、この、伯父さんが亡くなった時のケースでは、
本当の意味でのお別れは、既に一番親しい人達である伯父さんの奥さん、娘さんや息子さん、
弟妹であるオヤジや叔母さんは、通夜の前に終えているような気がした。
だから、葬式自体は、親族にとっては「儀式」的な色合いが強いと俺は感じた。
もちろん、本葬の日に、火葬場で燃やした後の骨をお墓に納める等で、
伯父さんの死を少しずつ受け入れたりもしたんだろうが。
でも、一番親しい人が死を実感する時期という観点では、
本当に宗教の助けが必要なのは、通夜や葬式の時ではなく、
伯父さんが死へ近づいていく過程での、
特に奥さんや息子さん、娘さんへのフォローじゃないかと思った。
後で聞いたら、介護をしていた時の伯母さんに、新興宗教系的な所から勧誘みたいなものがあった様子だ。
通夜では、妙なオバサン達2人が、やたら大きな声を上げて、俺達親族が座っている後ろでお経を叫んでいた。
・・・なんかおかしいよな、と、
俺はあんまり深く関係はしない伯父さんの通夜だったけど、何ともいえない違和感を感じた事を思い出した。
こういう時、どういう金の流れが起こるのかは知らないが、
なんとなく、「ヒトの弱みにつけこんで」的な、きな臭い雰囲気を感じた。
俺が喪主をするような事がこれからあった場合には、
絶対に無駄な金を使いたくないが、こういうの、何とも言えず、俺は腹が立つ。
宗教家や宗教法人は、それで飯を食い、税制面で優遇されてるんだろうから、
「死んだ人」じゃなく、「その後生きていく人」への心のケアをしっかりするべきだろうと思う。
それは精神科医じゃなくて、宗教関係者の仕事だろう、と思ったりする。
それを商売にするのは否定しないが、少なくとも、「遺族の心のケア」を目的とすべきであって、
「自分達の宗教の勧誘」的な事を目的にしちゃいけないんじゃないの、と思う。
でも、元をたどれば、俺達日本人の多くが、「生きている間に」、
自分自身の宗教を明確に定めていない事が根本的な問題なような気がする。
俺も含めて、人間、いつ死ぬか解らない。
家族を持つ俺は、「自分が死んだ時」どういう宗教で家族が葬式をするか、
ある程度の年齢になったら道筋つけといた方が良いよな、と思う。
困った事に、オヤジは宗教とかに全然無頓着で、
「キリスト教もいいよな~」みたいな事を言ったりしている。
そのくせ、自分は痛いのがダメなので、
この前の大腸からの出血で輸血を受けて入院した時には、
死にそうな顔してた。
困ったもんだ。
71歳のオヤジは、果たして、
ばあちゃんのように、「わしゃいつ死んでもいいよ~」と達観できるんだろうか?
どうも、死ぬ直前になって大慌てするような予感がして仕方がない。
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