2016年11月22日火曜日

(206)偉大なるばあちゃん-その1

以下、話せば長くなる、3年前の話。
 
現在65歳のおふくろ、約3年前のオヤジの1カ月の慢性白血病由来の体調不良による入院時には、オヤジと結託し、「息子家族に心配かけたくない」などと水くさい事を考えたらしい。結果として、おふくろが看病疲れでメンタルを病み、躁状態発症。大正生まれのばあちゃんから、夜8時頃に俺に電話がかかってきて、俺が慌てて新幹線と在来線乗り継ぎ、駅からタクシーで家についた夜11時には、おふくろは錯乱状態。
 
実家の車で救急で精神科連れて行こうとしたが、連日の睡眠不足で「60歳過ぎたババアの姿した、だだっ子」状態だったお袋は、俺が病院を探すために電話していたら家のブレーカーを落とすやら、家の外に出ようとするお袋の足にしがみつく、大正13年生まれのばあちゃんを引きずって外に出ようとして、ばあちゃんの入れ歯が飛んでいくやら、どえらい状態になった。
 
結局、ブレーカーをなんとか戻し、119に電話をかけ、お袋の上に俺が乗っかって、手をひもで縛り、救急車の到着を待った。
 
その後、サイレンを鳴らしたパトカーと救急車が夜12時頃に、ど田舎の家の前に到着。救急隊員と警察の方が、当時34歳の俺が当時62歳のおふくろの上にマウントポジション状態になっている姿を見て、「オカシイのはどっち?」みたいな顔をしていた。周りには野次馬。
 
大正生まれのばあちゃんは、話が長く、「いやあのね、下になっているのが私の娘。上に乗ってるのが、私の孫。今日、急きょこっちに来てくれたの。そんでね・・・」みたいな長い話が始まりそうになり、慌てて、「さっき、救急の精神科に連絡取ってるので、xx病院に連絡が入ってるはずです。途中でブレーカー落とされちゃって、話の途中で切れちゃいましたが・・・」みたいな話を、マウントポジションを取っていた俺が警察に説明。調べてもらい、事情を理解してもらったらしく、救急隊員の方が、安全確保用のヘッドギアをお袋につけ、お袋と俺は二人で救急車へ。
 
深夜1時頃に到着した精神科救急では、夜中に叩き起こされた、眠そうな眼をした精神科医の先生が、最初は「一般病棟で」と話したが、沈黙を演技していたお袋がまた騒ぎ出し、状況が呑み込めた先生はお袋を閉鎖病棟へ。「息子」である俺のサインで、「医療保護入院」の処置が取れるかは、前例がなかったらしく、先生が一生懸命専門書を開いて確認されていた。とりあえずは、その日は閉鎖病棟に入れる事が決まり、俺は\5,000くらい払って、タクシーで家へ。その時には俺も連られてテンパってしまい、会社のノートパソコン開いて、Excelに、猛スピードで愚痴をこぼした。今思えば、俺自身の躁状態がここで発症していた。「お袋に引っ張られた」とも表現できる。躁鬱病は遺伝しやすいと言われるが、「性格」が遺伝するのかもしれない。
 
ろくに寝れなかった翌日、オヤジの入院している病院に見舞いに行き、オヤジに状況を説明。オヤジは、「俺が入院している場合じゃない」と思ったらしく、退院の手続きを開始。その日、点滴を抜いて、仮退院の状態で、俺とオヤジはお袋のいる病院へ。閉鎖病棟の個室の中では、薬で躁状態を抑えたお袋が、虚ろな目をしていた。先生に聞いたら、前日は大騒ぎ、看護師さん達にも「多弁」全開だったそうだ。薬を飲むのを嫌がり、注射を打ったんだと思う。隔離部屋の個室のトイレは溝を開けただけの、刑務所の部屋みたいなイメージ。とりあえず、医療保護入院のためのサインを、俺じゃなくて、保護者(夫)であるオヤジがした事で、書類の体裁は整った。
 
しかし、刑務所の部屋みたいな所に入っているお袋の状況を見て、「俺の妻はまともだ」と心の底から信じ続けるオヤジが、「あの閉鎖病棟では人権が守られない」みたいな感じで、俺に向かって愚痴をこぼしてくる。自分の入院先に戻ってからも、電話でお袋の病院に文句を言ったらしく、俺がおふくろの病院の方から呼ばれて、「お父様からこう言われていて、我々の病院も困ってしまっていて」みたいな板ばさみに。
 
同じ病気の素質を持つ俺は、閉鎖病棟への隔離、親族との面会謝絶(それから1週間)が、「自分で抑えが利かなくなってしまった、脳の回転を抑えるため」という、医療行為である事を理解できるし、自殺の危険を避けるため、危険なものを置けないから、「溝だけのトイレ」にする必要があるのだろうという事がなんとなく理解できたが、躁鬱病という病気を、多分死ぬまで本当の意味で理解できないであろうオヤジは、「溝を開けただけのトイレ」が耐えられなかったんだろう。気持ちは解る。が、そこはお医者さんに任せるしかない。
 
・・・みたいなどん底だったが、1週間の面会謝絶期間中も、自分の病気の方は気合いで直し、無理やり退院したオヤジと、俺の2人で、おふくろの病院に毎日通い、先生から「患者を戻す先の家族」としての信頼をもらう事ができ、結局お袋は1週間で一般病棟、2週間くらいで仮退院。それから数日して正式退院&通院という形に。
 
俺自身、なんとなく、「強引でも、極力早く日常生活を経験させ、家に戻した方が、回復は早まる」という確信みたいなものがあったので、俺自身の躁状態による「多弁」は、Excelへの膨大な言葉にぶつけ、何とか家族3人を、普通の状態に戻した。それが確認できたところで、俺は神奈川に戻った。自分自身の躁状態と付き合いながらの仕事は相当きつく(お客さんや同僚に、ハイテンションで喋りまくったりした)、実際、上司は俺に休職を勧めてくれたが、辛うじて踏ん張った。
 
面白いもんで、オヤジの病気は、嘘のように治っていった。多分、「俺が頑張らんといかん」という強い意志が、オヤジ自身の病気を回復させたんだと思う。あの時のオヤジの回復ぶりには、人間の強さ、夫婦、家族の絆の強さの凄まじさを強く感じた。
 
・・・野次馬のご近所対策に関しては、ばあちゃんと俺2人で、「お茶」を配って回って、「世間を騒がしてごめんね」という趣旨で、ばあちゃんが明るいながらも、ドスの利いた(?)声で口封じ対策を行い、「人の噂も75日」が経つ事で、概ね「水に流す」事ができた。
 
ふうー、この話、話は尽きないが、さすがに匿名ブログ以外じゃ、書く事ができん。ここにぶちまけて、ちょっとスッキリ。
 
・・・あ、大正13年生まれのバアチャンの偉大さを書くつもりだったんだが、話が別の所に行ってしまった。
 
その2に続く。

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