「言論の自由」と「webの力」が合わさって、今の日本は、ものすごい速度で「open」になっているのかもしれない。少なくとも10年前には、こんなにwebで情報を調べる事なんてできなかった。
例えば、「暴力団」
俺自身、無意識に「タブー」視していて、知ろうと思わなかったので、全く知らなかったが、
ネットで検索しただけで、これだけの情報が簡単に調べられてしまう。
しかも、そのWikipediaのリンクをここに張るだけで、大勢の人が簡単に情報を見れるようにできてしまう。
俺が今日生まれて初めて知った事;
2010年時点で、
日本の全暴力団構成員・準構成員の数 : 85,200人 (こんなに多いんだ・・・)
山口組 : 内、46.3%を占めており、36,400人 (上場企業でも、これだけの規模の会社ってそんなに多くない)
これだけ大勢の人が暴力団に所属していると言う事は、
日本に、それだけの「需要」「飯のタネ」があったんだろう。
多分、この方達は、「openにできない」「人間だれしも、叩けば埃は出る」という所に需要がある事を使って、
良く言えば社会生活を円滑に、悪く言えば、「表のルールじゃ裁けない、裏のルールの専門家として」
飯を食って来られたんだろうと思う。
しかし、このwebの力で、「構成員の偉い方の名前」や、「組織構造」まで
これだけopenにされると言う事は、イコール、
「openにできない」という分野自体が、日本全体で相当なスピードで縮小していると言う事だろう。
島田紳助さんの件が、「見せしめ」の色が強く、大騒ぎになったのは、裏を返せば、
社会がopen化する過程で、裏のルールが白日の下にさらされるようになり、
暴力団の活動に金を払う人が減り続けているという状況を暗示している気がする。
でも、openにする事って、例えば、
「パチンコって明らかにギャンブルだよね」
「なんでパチンコ屋って、あんなに当たり前に駅前で営業できるの?」
という、つい思いついてしまう、当たり前な質問に対して、
「必ず、正面から明確な理由をつけて答えなきゃいけない」
という事だと思う。
社会として人間全体の幸せを最大化しようとする時、本当にそれって、良い事なんだろうか?
パチンコの件は、一人のパチンコファンとしては、
「そんな野暮な事聞かないでよ」という感想を持つ。
夫婦関係で例えれば、例えば、
「結婚する前の恋人の話」のように、
何でもかんでもopenにすればいいってもんじゃない。
オトナになればなるほど、
「openにしない方が良い事」
「質問を思いつかない方が幸せな事」
みたいなもの、誰だってあるはずだ。
Facebookのミッション(「もっとopenに、もっとconnectedに」)に対して、
私が違和感を感じるイメージとも似ている。
「野暮な事言うな」
「知らない方が幸せな事もある」
「わしは天才でバカなのだ」(by バカボンパパ?)
みたいな、先人達の本当の意味での「大人の知恵」、
俺達日本人、せっかく持っていたのに、欧米の文化に敬意を表し過ぎたが故に、
忘れて行ってしまってるんじゃないだろうか?
やっぱり、島田紳助さんの件が象徴するように、
日本の「世間」は怖いんだけれども、
文化的熟成度という観点では、ある意味では欧米の遥か先を進んでいるのは、多分間違いない。
あとは「個人」と「世間」の、「バランス」の問題だ。
「世間」が強すぎて、島田紳助さんを社会的に抹殺しちゃだめだ。
島田紳助さんには、紳助さん自身の「個人」「Indivisual」の強さの度合いを増やして、
いつかテレビの世界でまた活躍して欲しいと強く思う。
それはきっと、日本のためにも凄く重要だ。
だからと言って、欧米みたいに「個人」が強くなりすぎるのも困る。
「ゆとり世代、勘弁してよ」と俺達世代が会社で、下の世代に対して不満を感じたりするのも、
「結婚しないで子供を作らない一生独身」という権利を認めるが故に、少子化の進展が止まらないのも、
多分、日本人全体をマクロで見れば、「世間」が崩壊しつつあり、
「個人」が強くなりつつある。これが、今、現在進行形で進んでいる。
そして、多分、俺が「世間」に対して尋常じゃない程興味をひかれ続けているのは、
この現在進行形で進んでいる日本の状態に対して、
俺の「脳の内側の、動物の本能」或いは「第六感」が底知れぬ問題意識を感じているからだ。
・・・多分。
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