あるインド人の友人が、こんな事を言っていたのを、ふと思い出した。
「インドの魅力は、まるでインドが玉ねぎみたいだからなんだ。外皮の見た目は悪いけど、剥けば剥くほど、素晴らしい発見があるよ」
俺は小心者で、胃が弱く、すぐお腹を壊すので、多分一生インドに旅行する事はないだろうが、この言葉は、妙に印象に残っている。
多分、人間にも似たようなところがある。
俺自身を、玉ねぎに例えると、過去、特にストレスを感じたり、非常に厳しい環境下におかれた時、「俺自身の玉ねぎの皮を1枚めくらざるを得ない」という状態を、何度も経験した。特に、日本語が通じず、「英語を喋らないとどうにもならない」という環境下で、この、俺自身の脳の、非常時プログラムが作動する気がする。
そして、一度剥けた玉ねぎは、もう、元に戻らない。つまり、人間が生きている時、おそらく自分自身の玉ねぎの皮をめくり続ける。そして面白い事に、一度めくると出て来る、次の層の玉ねぎの綺麗さに一時期感動を覚えたりするのだが、だんだん飽きてきて、また自分自身の次の皮がめくりたくなる。
外的なプレッシャーがない状態、普通に生きている状態だと、わざわざ自分の玉ねぎの皮を剥こうと思わない。むしろ、「自分の玉ねぎを剥く」という行動は「恥ずかしさ」「恐怖」を感じる事の方が多い。俺自身のケースなら、通勤電車で、「女性セブン」を買って読む事が「恥ずかしさ」を感じる行動であったように。
「人間玉ねぎ」=「心」?
その玉ねぎを剥き続けた時、多分、その「芯」があるはず。そこにある「芯」は多分、「宗教」であったり「哲学」であったりするんだろうが、おそらく、人によって皆違う。「芯」は表には見えないが、だいたい、信仰している宗教、民族、経歴等を知る事ができれば、ある程度イメージはできる気がする。「芯」が違うからと言って、別に問題はない。例えば、「仏教」の芯を持っている日本人と、「キリスト教」の芯を持っているアメリカ人は、案外、相性が良い感じがする。
でも、「イスラム教」の芯を持っているイラン人と、「キリスト教」の芯を持っているアメリカ人(特に共和党派)は実に相性が悪い。話が逸れるかもしれないが、メジャーリーグで活躍しているダルビッシュは、日本では「日本人」という目で見ているが、おそらくアメリカ人は、「イラン人の息子」として見ている。ダルビッシュの活躍に球場が拍手が起こっている時、多分、アメリカ人の本音には、「イラン人でもこれだけ褒め称える俺達の国アメリカって、やっぱ、すごくカッコイイよね」という、自己満足が隠れている。
日本人なら、多くの日本人の「芯」は、仏教+儒教+家族教的なもののような気がする。
アメリカ人なら、典型的なアメリカ人の「芯」は、キリスト教。
すごく頭のいい、ウォーレン・バフェットさんのような「不可知論」の欧米人は、「芯」がキリスト教と教育を受けてきたけど、生きていく過程で「その芯が絶対に確実なものなのか」疑問を持ったりした人だと思う。
多分、その「芯」なしでは、人間ってアイデンティティ、自我が保てない。だから、必ず、誰しも皆、「芯」を持とうとする。でも、「芯」を外に見せる(オープンにする)と言うのは、非常に怖い事である事を本能的に皆理解しており、日本人だって、よっぽどの事でもない限り、日常生活で「宗教」については、いくら仲が良い友人同士でも、真剣に話す事は滅多にない。
俺の場合、もしかすると、小学生ぐらいの時から哲学少年だったので、その玉ねぎの芯に近付き過ぎてしまったのかも知れない。俺が「大したことない」「当然」と思っている、「芯」に近い話を正面から、まともに誰かとしようとすると、変な目で見られるケースが多い事に、40歳に近付いた最近、ようやく気付いてきた。
「シンクロニシティ」というのを、カテゴリの一つに俺がしたように、この「玉ねぎを剥く」過程で、人は「悟った」とか、「啓示を受けた」とか、誤解・錯覚しがちなんだろうと思う。極論すると、そこでとんでもなく道を誤っちゃったのが、麻原彰晃であり、危なっかしいのが、「~の科学」とかの、新興宗教の教祖様達のような気がする。
もっと言うと、多分、「芯」なんてもの、存在しないんだろう(空、実体がない)。その点では、釈迦、般若心経に共感する。「あって欲しいと願っている」或いは、「芯がないと、自分の脳が安定しない」だけなんだろう。
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