2016年11月22日火曜日

(173) 「公」と「私」

日本語に特有の「公」「私」という概念。
これは、日本人の文化と深く結び付いており、切っても切れない。
 
「公私混同」
(靖国参拝問題で)「公人としての参拝なのか、私人としての参拝なのか?」
(芸能人事務所が)「プライベート(「私」的)な事なので、この噂の件に関しては、本人に任せております」
などのように、「公」という概念、「私」という概念を、我々日本人は当たり前に使い分けている。
 
私なりの定義では、日本語で、
「公」という場合、「それでカネをもらっている、仕事に関連した自分」
「私」という場合、「カネを貰っている訳ではないから、何をやっても文句を言われる筋合いはない自分」
という意味で使っていると思う。
 
実際には同じ人間なんだから、「公」としての自分も、「私」としての自分も同じであり、
そんなの分けられるはずがない。
でも、「公私は別れている」と皆が思いこんだ状態で、今の日本社会は成り立っている。
 
多分、こんな変な社会、世界中見渡しても日本だけだろうと思う。
 
だから、37歳の俺は、
将来「政治家」「公務員」「企業の偉い人」にだけは、絶対になりたくない。
 
現時点で、日本の「世間」が期待している、
この人達に期待している役割、責任感、仕事のアウトプットは、常軌を逸している。
 
アメリカで、経営トップが受け取る年間報酬が数億円単位である事がザラであるように、
もらえるカネが凄いなら、まだ話は解る。
しかし、今現在でも、これらの人達に対しての世間の圧力(空気感)は、
「まだお前ら、カネをもらい過ぎだ」という嫉妬心ばかりである
 
これが続く限り、
(ほんのわずかな例外;大阪の橋下さん的な人達を除いて)
我が国日本では、永遠に優秀な政治家、リーダーが生まれないと思う。
 
これは、これまでの日本も、今の日本も、実質的に、
「世間システム」 (長老達の合議制で、物事が決まるムラ社会)
で多くの組織が成り立っているからだろうと、個人的には考えている。
(つまり、「年功序列」という日本の根深い問題とも、切っても切れない関係にある
 
欧米から輸入した「リーダー」や「トップ経営者」という概念で、
「タテマエ」では政治も、大企業も、地方も成り立っていると思い込んでいるが、
実は、「ホンネ」(もしかすると、多くの日本人自身気付いていない??)では、
「リーダーなしでも」組織は動くという、日本独特の仕組みで、多くの組織が成り立っている。
 
組織がおかしくなると(企業倒産、不祥事など)、
「経営トップ」の責任が追及される事が多いが、
日本人のトップの多分大多数は、「ヨボヨボの最長老」だ。
気の毒な事に、他の長老達や、その組織全員のための犠牲者、スケープゴートに追いやられ、
「ヨボヨボの最長老」は社会的に抹殺される所まで追いやられがちだ。
 
アメリカ人のように、「元気でバリバリで、カネもたくさんもらっているリーダー」
が、経営責任を取らされるのなら話は解る。
 
しかし、「ヨボヨボの最長老」的な人で、世間の袋叩きに合う人達に対して感じる感情は、
(腹黒い方の俺は)「ざまーみろ」「偉そうにしてた罰だ」と思うが、
(優しい心の方の俺は)「そこまで給料もらってないのに、気の毒だなあ。交通事故みたいだなあ・・・」
というものだ。
 
この日本社会の奇妙さに、皆気付いているんだろうか?
このように考える、俺の方が考え過ぎなのか??
 
・・・本当にわからん。謎だ。
でも、日本社会は今日も動いていく・・・

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