(143)にて、アメリカの共和党の支持層が、
キリスト教の右派であり、保守的な白人層であり、反同性愛・反中絶を強固に主張すると書いた。
これが具体的にどういう信仰であるか、より掘り下げて考えたいと思う。
なお、基本的にはキリスト教国であるアメリカだが、イギリスもそうらしいが、
知識人集団の多くは、「不可知論」らしい。
【(75) 信教の自由(憲法20条)、不可知論】も参照ください。
進化論が正しいと考えている人は、アメリカ人の知識階級には大勢いると思う。
(進化論)
しかし、アメリカ人の一般大衆には、教えを忠実に信じるクリスチャンも多く、
さらに、共和党の支持層であるようなキリスト教右派には、「進化論」を否定する人も相当数いるらしい。
彼らキリスト教信者にとって、
「進化論」と「創造論」は、宗教の根幹に関わる議論だ。
(創造論)
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上述した通り、アメリカ人の皆がそうではないのだが、
現実に、アメリカでは、
「進化論を教えるような学校には子供を通わせない」
というような親も相当数いるらしい。
ケンタッキー州には、創造博物館という博物館が実在するらしい。
ケンタッキー州 : 共和党が強い州。
「ティーパーティー」もこの州との関連で名前を聞く。
この博物館では、進化論を完全否定し、「創世記」を信じ、
「人間は神が作った」という信仰と理論的整合性を取るため、
どうやら恐竜と人間が同じ時代に生きていたという設定を作らざるを得なくなったらしい。
多分、一神教を信仰するという場合、程度の差こそあれ、こういう部分がある。
そして、アメリカは、2大政党の一つである共和党が、
進化論に反対的な立場を取らざるを得ないであろう、キリスト教右派なのである。
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さらに言うと、
私自身、この間まで
「へー、そういう強いキリスト教信仰の人も多い国なんだな、アメリカは」
くらいに考えていたが、
キリスト教を信じている人と、私のような、「ごく普通の」日本人との間で、
決定的に違う事がある事に最近気付いた。
おそらく、民主党支持層である、
比較的リベラルな考え方をしているアメリカ人であっても、
おそらく、以下の事は当てはまる。
その決定的な違いは、
日本人の私 :
「人間と、猿の間にそんなに大きな差はない。生きとし生けるもの皆、仲間」と思っている。
アメリカ人 :
「人間とそれ以外の動物は違う。人間は特別な生き物。神は、人間を神に似せて作られた。」
と多分考えている。
「人間は万物の霊長である」という言葉があるが、
多分、キリスト教を信じている人は、
「ヒト」という生き物を、特別視している。
これって、結構見過ごしがちな、宗教の違いによる、決定的な差異だと思う。
感覚的には、
アジア圏(中国、東南アジア、インド)は「生きとし生けるもの」という広い枠組みで考える傾向があるが、
ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアは、
「ヒトという生き物は、他の動物とは違う」と考えている気がする。
この違いは、多分、結構大きい。
アジアのいい意味での居心地の良さ、気楽さを感じる原因は、
この辺りにあるんじゃないかと思う。
この違いが影響していると思われる事象の中で、
ぱっと思い浮かんだのは、以下の捕鯨問題だが、他にもいろいろある気がする。
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「捕鯨問題」について
日本人的な感覚だと、
もちろん、動物をむやみに殺すべきじゃない。
人間がペットとして飼う事も多く、身近な哺乳類である、犬や猫を食いたいとは思わない。
クジラやイルカが、哺乳類の中で相対的に知能が高いのは多分事実で、
知能が高い動物を殺して食べるのは良くないと言われると、それはそれで一理あるような気もする。
でも、人間が生きるには、他の生き物を殺して食べないといけない。
牛や鳥など、死ぬ時に苦しくないよう、痛みを感じないようにしてあげる必要は感じるが、
殺して食べる事自体は仕方がない事。極論すれば、野菜等の植物だって生きている。
植物の命を奪って、それを食べないと、人間は生きられない。
(だから、クジラを殺して食べる事と、牛を殺して食べる事の違いが今ひとつピンと来ない)
一方で、キリストを信じ、捕鯨に反対する人の感覚は、多分、
人間は神によって作られた特別な生き物。
でも、だからこそ、他の動物達を守ってあげる責務がある。
自分達はクジラを食べない。
人間が守ってあげるべきクジラを残酷に殺して捕まえ、食うなんて、何て野蛮なんだ。
この二つの考え方がぶつかると、宗教論争的になってしまう。
我々日本人が当たり前の感覚で、
「生きとし生けるものは皆助け合っている。でも殺して食わないと生きられない」と感じ、
我々側の理論で説明しようとすればするほど、
彼らの側には、「醜い言い訳」にしか聞こえず、怒り・憎しみ・侮蔑の感情しか生まないんじゃないかと思う。
つまり、この終わりがないであろう論争は、
お互いの信仰する宗教の違いに起因している部分があり、
お互い、相手側に改宗を求める事がいかに難しいかを理解するなら、
論争を避けるのが一番無難だと思ってしまう。
「捕鯨は食文化だ」と言い切って、捕鯨を続ける事は、
パトリオティズムなのか、ナショナリズムなのかは実は結構難しい問題だと思う。
外国の人がそこまで不愉快に思うなら、
他に食うものもあるんだから、別にそこまで無理して捕鯨しなくてもいいんでは?
という気もするし、
いや、それは日本の食文化なんだから、譲るべきじゃない、という意見にも一理ある気もする。
・・・いずれにせよ、俺は申し訳ないが捕鯨問題には直接関わりたくないが。
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