般若心経より。
「眼耳鼻舌身意」
この言葉、相当深い。
多分、まだ俺はこの言葉の深さをまだ完全には理解しきれていない。
が、今の時点での考察を以下に述べる。
「5感」と言うが、
視覚(眼)
聴覚(耳)
嗅覚(鼻)
味覚(舌)
触覚(身)
上記言葉が凄いのは、並ぶ順番が、概ね、脳からの距離の順番になっている。
脳から一番近い順に、目、耳、鼻、舌、身体
解剖学的には、脳はいったいどこまでが脳なのか?
という問いは、実は難しいらしい。
延髄や脊髄へは、シナプスが伸びていて、脳の延長らしい。
つまり、「脳」という概念は、人間が作っているのであり、
実は、境目はあいまい。
極論すると、「足のつま先の神経だって、脳の一部」という命題を、
完全に否定するのは難しいはずだ。
養老先生が、言語の発生は、
「脳内で、視覚と聴覚部位を無理やりくっつけた事で発生した」
とおっしゃっていたと思う。
これを俺なりに解釈すると、
人間が言語と言うものを発明し、これだけ地球上で繁栄したのは、
人間という生き物が、視覚と聴覚を極端に発達させ続けてきたから。
しかし、人間と言う生き物自体は、この3,000年くらい、ほとんど変わっていないはず。
3,000年前に生まれた赤ん坊をタイムマシンで現代に連れてくれば、多分
普通に現代人になるし、
逆に、今生まれた赤ん坊を、タイムマシンで3,000年前に連れて行けば、
多分、普通に原始人になる。
と言う事は、人間の文明の進化は、「教育」の発展そのもの。
昭和初期には、20歳が成人だったのに、
今は20歳になっても、まだまだ大人になれないのは、
文明が発達し過ぎて、覚えなきゃいけない事が増えすぎた事も一因だろう。
人間の脳自体は、3,000年以上、進化していないのである。
話を戻して、釈迦が凄いのは、「意」という、
5感を超えた概念を普通に記述している事。
おそらく、当時は、まだ視覚、聴覚によって脳に詰め込む知識が少なかったので、
多くの現代人が眠らせてしまっている、「第六感」を、
釈迦は相当高めていたんではないかと思う。
俺自身は、自分の脳に眠っているであろう、
第六感「意」を呼び覚ます事、これが結構重要じゃないかと思っている。
皮肉な事に、視覚(目)、聴覚(耳)が活発になるほど、
多分、逆にこの第六感(意)はさらに深い眠りについてしまう。
俺なりの、第六感を活発にさせる時のイメージは、
脳の外側を覆っている大脳に活動させず、
その内側の、動物の本能部分の脳に任せる、というイメージ。
つまり、「脳の赴くまま、無心で」行動すると、一番第六感が活発になるような気がする。
米原万里さんの著作で、米原さんが同居されていた猫達と、
相当レベルまでコミュニケーションを取っていたであろう様子が想像される
ものがあった。
米原さんは、通訳としても間違いなく天才だったと思うが、それを突きぬけて、
動物(ネコ)とも深いレベルでコミュニケーションを取れていたんだろうと思う。
一般人側からは、「釈迦は動物と会話ができる」という風に見えたらしいが、
まさしく、米原さんのネコ達との会話は、俺達一般人にはそう見えたかもしれない。
「第六感」は、動物とのコミュニケーションだけでなく、
おそらく、(動物である)人と人とのコミュニケーションに於いても、
相当役に立つと思われる。
実際、俺の奥さんは、時々「第六感」を持っているんじゃないか、と思う時がある。
会社の接待とかで、ちょっと奥さんには言いにくい、女性がいる店に行った後、家に帰る場合等、
すさまじい「勘」を働かせる時がある。
多分、「嗅覚(服の匂い)」や「なんとなくいつもと俺の態度・行動が違う」など
がその「第六感」の正体なんだろうと思うが、
もしかすると、世の中の女性は誰も皆、五感の感覚器官以外に、
男性にはないような感覚器官を備えているのかもしれない。
・・・男の俺としては、妻には第六感を働かせるのは、やめてほしいところだが。
0 件のコメント:
コメントを投稿