2016年11月18日金曜日

(113) 眼耳鼻舌身意

般若心経より。
「眼耳鼻舌身意」
 
この言葉、相当深い。
多分、まだ俺はこの言葉の深さをまだ完全には理解しきれていない。
が、今の時点での考察を以下に述べる。
 
「5感」と言うが、
視覚(眼)
聴覚(耳)
嗅覚(鼻)
味覚(舌)
触覚(身)
上記言葉が凄いのは、並ぶ順番が、概ね、脳からの距離の順番になっている。
脳から一番近い順に、目、耳、鼻、舌、身体
 
解剖学的には、脳はいったいどこまでが脳なのか?
という問いは、実は難しいらしい。
延髄や脊髄へは、シナプスが伸びていて、脳の延長らしい。
つまり、「脳」という概念は、人間が作っているのであり、
実は、境目はあいまい。
極論すると、「足のつま先の神経だって、脳の一部」という命題を、
完全に否定するのは難しいはずだ。
 
養老先生が、言語の発生は、
脳内で、視覚と聴覚部位を無理やりくっつけた事で発生した
とおっしゃっていたと思う。
 
これを俺なりに解釈すると、
人間が言語と言うものを発明し、これだけ地球上で繁栄したのは、
人間という生き物が、視覚と聴覚を極端に発達させ続けてきたから。
しかし、人間と言う生き物自体は、この3,000年くらい、ほとんど変わっていないはず。
3,000年前に生まれた赤ん坊をタイムマシンで現代に連れてくれば、多分
普通に現代人になるし、
逆に、今生まれた赤ん坊を、タイムマシンで3,000年前に連れて行けば、
多分、普通に原始人になる。
 
と言う事は、人間の文明の進化は、「教育」の発展そのもの。
昭和初期には、20歳が成人だったのに、
今は20歳になっても、まだまだ大人になれないのは、
文明が発達し過ぎて、覚えなきゃいけない事が増えすぎた事も一因だろう。
人間の脳自体は、3,000年以上、進化していないのである。
 
話を戻して、釈迦が凄いのは、「意」という、
5感を超えた概念を普通に記述している事。
おそらく、当時は、まだ視覚、聴覚によって脳に詰め込む知識が少なかったので、
多くの現代人が眠らせてしまっている、「第六感」を、
釈迦は相当高めていたんではないかと思う。
 
俺自身は、自分の脳に眠っているであろう、
第六感「意」を呼び覚ます事、これが結構重要じゃないかと思っている
 
皮肉な事に、視覚(目)、聴覚(耳)が活発になるほど、
多分、逆にこの第六感(意)はさらに深い眠りについてしまう。
 
俺なりの、第六感を活発にさせる時のイメージは、
脳の外側を覆っている大脳に活動させず、
その内側の、動物の本能部分の脳に任せる、というイメージ。
つまり、「脳の赴くまま、無心で」行動すると、一番第六感が活発になるような気がする。
 
米原万里さんの著作で、米原さんが同居されていた猫達と、
相当レベルまでコミュニケーションを取っていたであろう様子が想像される
ものがあった。
米原さんは、通訳としても間違いなく天才だったと思うが、それを突きぬけて、
動物(ネコ)とも深いレベルでコミュニケーションを取れていたんだろうと思う。
 
一般人側からは、「釈迦は動物と会話ができる」という風に見えたらしいが、
まさしく、米原さんのネコ達との会話は、俺達一般人にはそう見えたかもしれない。
 
「第六感」は、動物とのコミュニケーションだけでなく、
おそらく、(動物である)人と人とのコミュニケーションに於いても、
相当役に立つと思われる。
 
実際、俺の奥さんは、時々「第六感」を持っているんじゃないか、と思う時がある。
会社の接待とかで、ちょっと奥さんには言いにくい、女性がいる店に行った後、家に帰る場合等、
すさまじい「勘」を働かせる時がある。
多分、「嗅覚(服の匂い)」や「なんとなくいつもと俺の態度・行動が違う」など
がその「第六感」の正体なんだろうと思うが、
もしかすると、世の中の女性は誰も皆、五感の感覚器官以外に、
男性にはないような感覚器官を備えているのかもしれない。
 
・・・男の俺としては、妻には第六感を働かせるのは、やめてほしいところだが。

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