2012/3/9加筆・修正
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「道と言う道は全て天竺に通じる」と信じ、我が道を歩み続け、
深く考え続けたら、なんと日本国憲法20条に行きついた。
(多くの)日本人の宗教は何か?
○「不可知論」
×無神論者
有神論「神は絶対いる」
無神論「神は絶対いない」
日本人「いるかもしんねーし、いないかもしんねーし」 ⇒これは、「不可知論」そのもの。
無神論「神は絶対いない」
日本人「いるかもしんねーし、いないかもしんねーし」 ⇒これは、「不可知論」そのもの。
不可知論
不可知論は、形而上の存在、死後の世界、神の存在、神のお告げなど、神学に関する命題の真偽、また客観的本質的な実存は本質的に認識する事が不可能である、とする宗教的、あるいは哲学的な立場をいう。
ウォーレン・バフェットさんも、不可知論者
こういう事もひっくるめて、日本国憲法20条「信教の自由」が保障されている。
逆説的だが、憲法での信教の自由の保障は、
いかに、「不可知論者」でい続ける事が容易ではないかを示しているのかもしれない。
「有神論」、「無神論」の誘惑に打ち勝ち続けないと、不可知論者のままではいられない。
年を取って、死を嫌でも意識せざるを得なくなると、宗教にすがりたくなる気持ち、
解らないでもない。実際、俺自身、将来死を実感する年齢になった時、
宗教にはまらないと断言はできない。
宗教の最大の存在意義は、「死の恐怖心の克服、或いは、そこから目を背けられる事」
これに尽きると思う。
「メメントンモリ」(死を想え)という言葉は、普段は考えもしない、死を思う事で、
逆に、「生きているだけで丸儲け」という生の幸せ再確認するための言葉だと思う。
Religionの語源は、Rely on~(~に依る)からだったはず。
その意味で、3大宗教の内、キリスト教とイスラム教は、典型的な"Religion"だが、
仏教は、Religion(宗教)よりも、むしろ、Philosophy(哲学)に近い。
テーラワーダ仏教からは、「依存」という安易な道に逃げるな、考え続けろ、
というメッセージを強く感じる。
個人的には、本来の仏教は、
不可知論と極めて親和性が高いと思う。
*ブッダが、口語で伝えた始まりの教え;
ブッダが生きていた当時、インドでは文字がなく、口語言語だった。
ブッダの死後、弟子たちが口伝し、中国等で、経典化されていった。
その仏弟子の一人が三蔵法師("michitenji"の名付け親みたいな存在)であり、
法華経や般若心経も数多くある経典の一つ。
仏教伝来(西暦538年?)によって、おそらく、日本にこれらの経典が持ち込まれ、現在に至っている。
「慈悲の瞑想(私、私の親しい人、生きとし生けるものが幸せでありますように)」
が感動を覚えるほど綺麗なフレームワークになっている事から、
私たちのような庶民向けの、
ブッダの教えの最大のエッセンスは、ここ(慈悲の瞑想)に凝縮されているような気がしてならない。
*出家したいとか、本職のお坊さんになりたいという方は別です。
私のような庶民には考えも及ばない、深いブッダの教えがあるに違いありません。
ちなみに、俺の場合、私自身の実家と妻の実家は、日蓮宗&曹洞宗の大乗仏教だ。
お坊さんがどういう人かで、良い葬式になるか、「坊主丸儲け」の葬式になるかが
決まってしまう気がする。そして、未だに、葬儀屋のノウハウ、価格体系は、タブー、ブラックボックスだ。
一部に明朗会計化する動きもあるようだが、既得権を持つ葬儀屋、お寺側が抵抗を示しているようだ。
私の両親の住むど田舎では、未だに、お寺が、
「大正生まれのお年寄りの精神科医」としては機能している気がする。
おそらく、精神科医がいなかった時代(江戸、明治、大正、昭和初期)には、
機能的に、お寺の和尚さんが、現代で精神科医が行っている仕事をやっていたのだろう。
今の大都市で、お寺の和尚さんが精神科医の役割をしている例は極めて稀と思われる。
じゃ、お寺の存在意義って何?
葬式上げる時(儀式の時)だけ、お経を上げて、お金をもらうだけという坊主がいるとすれば、
本当に存在意義があるのか?坊主も、昭和、平成を経て、既得権益化していないか?
(玄侑宗久さんのような、福島を始め、日本のために多大なる貢献を現在進行形でなさっており、
心から尊敬できる立派なお坊さんも大勢いらっしゃいます。
お坊さん全てに文句を言っている訳ではありません。誤解なさらないで下さい。)
曹洞宗などの禅宗は、テーラワーダ仏教に近い部分も多そうだが、やはり派閥やら、
政治色を感じてしまう(どこが総本山だとか、大僧正やら何やら、お坊さんにもランクがある事など)。
日蓮宗に至っては、法華経(南無妙法蓮華経)のお題目を唱えさせすぎて、
ブッダの教えがどういうものかを頭を使って信者に自分で考えてもらう事を、
忘れそうになっているのではないか。
実際、日蓮系の宗派から派生した新興宗教からは、
もう仏教(必要最低限の条件 : 「ブッダの教えを信じる」)
と呼べなくなっていったものが存在する。
実際、破門されているはずだ。
多分、この原因は、日蓮さんが、そういう宗派間対立のあった頃に、
時代から必要とされた人物だったからだと思う。
「経典が素晴らしい」という事と、「経典に書いてある内容・教えが素晴らしい」という事を、
一緒くたにしてしまっている気がしてならない。
私は頭があんまり良くないので、法華経は難解過ぎて良く解らない。
即解雇されるべき先生 : 「簡単な事も説明できない。理解していない」
大いに問題がある先生 : 「簡単な事を、わざわざ難しく説明する」
本人は自信を持っているんだろうが、先生失格 : 「難しい事を、難しく説明する」
理想的な先生 : 「難しい事を、簡単に、解りやすく説明する」
日本で最大の大乗系宗派と聞き及んでいる、「浄土宗」も、
あんまりお題目(南無阿弥陀仏)に頼りすぎず、
自分の頭で、ブッダが伝えた教えとはどういうものか、信者に考えてもらう事にも、
もう少し重点を置かれてはどうかと思う。
テーラワーダ仏教(上座部仏教)は、かつて「小乗仏教」という名で、
大乗仏教側から誤った批判をされた事がある。
批判をされた事が事実かどうか、その批判が的を得ていたかどうかは別としても、
少なくとも、私が中学、高校の頃、
学校で、「小乗仏教」「大乗仏教」という言葉を聞いているという事は、
どっかで、仏教のエッセンスが、政治的な、
大人の都合(主に大乗仏教側の都合)で歪められてきた証拠だろう。
・・・なお、くどいようですが、このブログは、「企業の世間的責任」という言葉を
世に広める事が目的であって、私はお坊さんでも、宗教家でも、哲学者でもない、
ただの零細外資系企業勤務のサラリーマンですので、
批判やご意見は専門家の方に
向けていただくよう、お願いいたします。
私はテーラワーダ仏教の教えに共感を持ちますが、
僧侶でも、宗教研究家でもありませんので、
一切、宗教関連のトラブルに巻き込まれたくありません。
巻き込まれそうになったら、即、この記事を削除、もしくは、ブログ閉鎖するつもりです。
何卒ご理解のほど。
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