2016年11月30日水曜日

(372) 世間と『永遠のゼロ』

(オリジナル記事作成日時 : 2014/1/4)


昨日、永遠のゼロ(映画版)を観て来た。
 
百田尚樹さんの小説は結構前に読んだんだが、終戦直前の神風特攻隊や回天、硫黄島の戦い、沖縄戦、これらは、日本人として、決して忘れてはならない歴史として知っておくべきだと思う。
 
昨年末の安倍首相による靖国参拝に続いて、新藤総務省長官が元日に靖国を参拝した。海外、特にアジアからは「先祖を敬う気持ち」という話だけでは納得してもらえないと思う。
 
同時に、日本人としても、安倍首相が岸信介さんの孫、新藤総務相長官が硫黄島の戦いを率いた栗林中将の孫である事について考える時、知っておかねばならない事があると思う。
 
若い人は特に、いろんな映画を観た方がいいと思う。映画に対して論評するのは、それが好きな人に任せればいいが、自分の頭を使って、どういう経緯で日本が戦争に突入したか、戦争中の日本の雰囲気はどうだったか、原爆が広島・長崎に投下される敗戦直前はどういう状況だったか、等は、各人、自分で知っておいた方がいいと思う。硫黄島からの手紙(2006年)、出口のない海(2006年)、風立ちぬ(宮崎駿監督)、そして放映中の永遠のゼロ、それぞれ表現者によって視点や考え方は違うが、観る側の我々はたくさんの事を知る事ができる。
 
映画 永遠のゼロの中のシーンで、三浦春馬君が自分の祖父の事を調べている途中に参加した合コンで、友人から特攻隊と自爆テロを比較され、感情的になるシーンがあった。春馬君は、両者の違いとして、何の罪もない民間人を狙った無差別の自爆テロと、戦争中に敵軍に攻撃した特攻隊とは全然違うという事を言っていた。もう一つ決定的に違うのは、特攻隊は、当時数千万人以上の人口がいた日本という国、その国の政府も国民も皆でその行為を英雄扱いした事だ。それに対して非を唱えたり、永遠のゼロの主人公のように、自分の命を捨てる事を怖がる者を臆病者呼ばわりするという、極めて異常な状況にまで、日本は進んでしまった歴史がある。それもわずか70年程前に。
 
私は、『なぜ』そういう状況になってしまったかを考える事は非常に大切だと思う。
 
私は、日本人の文化的特徴でもある『世間』がこれに深く関係していたと考えている。
 
上述した映画を観ると、いろいろな所でその頃の状況、雰囲気が表現されているが、当時、「日本のために憎き敵国を攻撃し、自分の命を捨てるのがお国のため」という空気が支配していた。誰か特定の人がそれを指示したのではなくて、その世間(空気)に誰も抵抗できないという状況だった。
(123)イワシの群れと世間
この123の記事に書いたボイドモデルの3要素、Separation(引き離し)、Alignment(整列)、Cohesion(結合)に分解すると、私はこの戦時中の日本人の状況がイメージしやすい。(注:「鳥の群れの場合」の所のコメントは、123のリンク先からの引用です)
 
【Separation(引き離し)】
鳥の群れの場合 : Separationは、近くの鳥や物体に近づきすぎたらぶつからないように離れるルールです。もし、ボイド同士が近づきすぎてしまったら、前を飛んでいるボイドはスピードを速くし、後ろを飛んでいるボイドはスピードを遅くするようにします。障害物、例えば柱とか壁とかに対しては、それにぶつからないように方向転換して衝突を避けるようにします。
 
戦時中の日本人 : お互いの家族の事には立ち入らない。自分の家族は自分で守るが、他の家族は基本的には他人。
 
 
【Alignment(整列)】
鳥の群れの場合 : Alignmentは、近くの鳥たちと飛ぶスピードや方向を合わせようとするルールです。すなわち、同じ方向にあまり距離を空けないように飛ぶようにします。このルールは、ある一定の距離より遠ざかりすぎてしまったら前を飛んでいるボイドはスピードを遅くし、後ろを飛んでいるボイドはスピードを速くするようにすることで実現することができます。
 
戦時中の日本人 : 周囲の状況に合わせる。周囲が「敵国憎し」「お国のために命を捨てるのは尊い」と言っていたら、自分もそれに合わせ、皆が思い込もうとする。本音ではそれに対して疑問を感じる事があったとしても、建前上、反対意見は一切許容しない。「気合いを入れる」という名目で、上官が部下を殴るシーンや、リンチを行うシーンは、あちこちに出てくる。
 
 
【Cohesion(結合)】
鳥の群れの場合 : Cohesionは、鳥たちが多くいる方へ向かって飛ぶルールです。鳥が多くいる方向というのは、大ざっぱにいうと群れの中心(重心)方向ということになります。ですからこのルールは、ボイドに群れの中心の方向へ飛んでいくことを指示しています。この群れの中心をどう出すかですが、これは全ボイドの位置(座標)の平均として求めます。
 
戦時中の日本人 : 鳥の目を持ったリーダーが不在だった。戦局の悪化に伴い、どの方向に向かうか、誰も解らなくなって行き、誰も責任を取らず、取れず、皆が誤った方向に進み続けてしまった。群れの中心方向が、「こうあるべき」という理想像ではなく、集団全体の多数派の考え方になりがちなので、一方向に進み始めると方向修正が難しい。一方で、内部からではなく、強烈な外圧(例:黒船、敗戦)があると極端に手のひらを返したように逆方向に振れる事も多い。こういう傾向は今も残っており、一度皆で持ち上げた人を一挙に攻撃して叩き落とす事が頻繁に起こり続けている(例:ホリエモン、島田紳助さん、河本準一さん、橋下知事、みのもんたさん・・・)。
 
 
戦争の際、尊い命を捨てた我々日本人のご先祖様を敬う事はとても大切だし、その気持ちに心から感謝するのはとても大切なことである一方で、我々日本人が持つ文化的特徴(世間、空気)は、暴走すると悲惨な状況になる事、それを忘れてはならないと思う。
 
一般的な欧米人の感覚からすると、場の空気によって、自らの命を捨てる所まで進むと言うのは多分理解不能で、だからこそ、彼らのルールで裁くには、戦犯を特定する必要があったんだと思う。だが、現実的には、誰か特定の人達が指示・支配したのではなくて、戦争中の日本人は、無意識に正体不明の世間(空気)に支配されていたんだと思う。
 
今を生きる日本人の我々めいめいは、世間・空気に支配されないよう、気をつける必要があると思う。
 
靖国参拝の正当性を過剰に主張する空気も、靖国参拝を過剰に否定する空気も、どちらも怖い。自分と異なる考え方を認めようとしない、排他性が強い人が多い気がする。ちょっと前までは、匿名の世界が中心だったが、米国大使館のFacebookのコメント欄等、実名の世界にも伸展して来ているようだ。排他性が強い人は、自分の意見の正当性ありきで議論を進めるので、議論の意味がない。一方的に相手を攻撃して、自分の正当性を再確認するのに執着する相手に対しては、無視・スルーが最善の策だ。
 
皆がそれぞれ自分の考えを持てば、空気は雲散霧消する。
 
我々日本人の文化である、空気・世間の弱点を克服するには、皆が周囲に流されるのではなく、自分の考えをある程度持つ必要がある。但し、空気・世間は裏返すと日本人の世界の中での競争力(連帯・チームワーク)の源泉でもあり、それが日本人らしさとも言えるので、完全にはなくならないだろうが。
 
これまでいろいろ世間について考察してきたが、私なりの結論は、「世間・空気」=人間の妄想だと考えている。つまり、その正体さえ解ってしまえば、対策はいくらでもできる。我々の世代の次の世代が困った時、それを自分の頭で明らかにする時の手助けをしたいというのも、私がこのブログを続けている目的の一つだ。

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