2016年11月25日金曜日

(290) 水野敬也さん

「夢をかなえるゾウ」で名を知られるようになった水野敬也さん。
すごく面白い人だと思う。
 
毀誉褒貶(きよほうへん)の激しい人という気はするが、個人的にはこの記事なんかも面白かった。
 
昔から、水野さんが日記を地道に書いていた事を知った。その日記も読み返させてもらうと面白い。
これなんかは、「夢をかなえるゾウ」が売れ始める頃の葛藤を感じる。
 
一番面白いな、と思ったのはこの日記。
 
以下、この、2007年11月26日付の、水野さんの日記からの引用。
 
(Quote)
ところで、僕がこうして話していくと、たぶんほとんどの人が
「水野は宗教をやろうとしているのではないか?」
と感じると思います。

僕がこの話をした友人たちもほとんどがそう思ったみたいです。
確かに、形態的に一番近いのは宗教だと思います。

しかし、僕がそもそもこの夢を持ったのは、現代社会において、
少なくとも、今の日本の、僕の世代に関して言えば、
「宗教が果たすべき役割が果たせなくなっている」
ということなのです。

だって、宗教って気持ち悪いじゃないですか。

あなたのトモダチがこう言ったらどうでしょう?
「最近、面白い宗教があってさあ」
引きますよね。
 
「最近、面白い宗教にハマっててさあ」
即、友人をやめることでしょう。
 
今の時代は、宗教より、たとえばスピルバーグの映画の方が影響力を持っている時代なのです。
(個人的には、今の状況はあり得ない、と思っています。そもそも映画のやっていることは、「人に大事なことを伝える」ではなく、「一定時間、人間を同じ場所に座らせる」であると思います。しかし、「映画の影響力は巨大である」この現実を踏まえなけれ「キモチワルイ人」になってしまうので、メディアに関しては泣く泣く見たり、多少の研究や分析をしているのです)

さて、
この現状は、もはや「宗教」が人の幸せ、生きるということについて、それらの問題を解決できなくなっていることを如実に表しているのです。
もちろん、たとえば映画がその役割を果たせるはずもありません。
(果たせるという幻想は与えてはいますが)

こうした現状ゆえに、僕は「宗教的なるもの」は大いに可能性がある、と考えます。

つまりは、
まだ、人間はその領域までたどり着いていないという風に考えているのです。

少なくとも、2007年11月26日を生きているこの僕が
「どう生きていいか、よくわからん」
と考えている、という揺るぎない事実こそが、まだ、人類の誰もがその位置にたどりついていないことの証明になると思います

(Unquote)
 
今日(2012年10月9日)発売のPRESIDENT(2012年10月29日号)の特集が
人生が変わる「仏教」入門だった。
買って読んでみたが、正直、あんまりだった。

最初の所で、宗教学者さんと曹洞宗から恐山に移られたお坊さんとが、最近巷で評判が良くなっているテーラワーダ仏教に対して反論されるような文章があったが、『慈悲の瞑想』(私が幸せでありますように・・・生きとし生けるものが幸せでありますように)を毎日真摯に行うという、「行動」を重視しているように感じたテーラワーダ仏教側には、そんな宗派間の考えの、どちらが正しいかを議論しようとする気はないように思う。

むしろ、既存の大乗仏教は、「生きとし生けるものが幸せでありますように」と、毎日、繰り返し祈る事の大切さ(それによって自分が幸せになれる。「情けは人のためならず」)を我々、生きている一般庶民に指導し、粘り強く教育するという努力を、忘れてしまっていないか?どうも、宗教学者さんとの対談では、理屈のこねまわしを感じた。宗教は死んだ人のためじゃなくて、生きている人のためのもののはずだ。小池龍之介さんの文章にはそういう気配はなかったけれども・・・
 
個人的には、日本人に関して言うなら、養老先生が著書「無思想の発見」に書いておられる、日本人は「思想なんてないという思想を持っている」(数字で言うゼロの発見)、理屈のこねまわしの最終的な結論は、そこに行きつく気がする。数字のゼロに何を掛けてもゼロなのと同じように、日本人(或いは釈迦?)が元々持っている仏教的な「無」「空」みたいなものには、理屈で立ち向かっても全てゼロになる気がする。
 
それ(思想なんてないという思想)は真理なのかもしれないが、しかし世界の人口の8割が1神教を信じているという事から判断すると、人間の脳の方は、世界人口の全員が、各人が生きている間に「無思想」に到達できる程、自らを客観視できるようにはできていない。おそらく今後も、一神教の世界人口に占める割合は、それほど変わらないと思う。
 
むしろ、日本は少子化で人口が減って行くから、「無思想」「多神教」的な考え方を持つ人口の割合は、マクロではさらに減って行くかもしれない。
 
ま、それはそれとして、一方で「無思想」は(『死』に対しての明確な答えをくれないという意味で)すごく不安なものなのであるのは多分間違いない。日本に於いては、(引用させてもらった水野さんの記事にある通り)『宗教的なるものは大いに可能性がある』という状況は当面続くと思う。
 
これって、結構危険な話でもあり、現実に方向性を間違えてしまったのが、多分、第二次世界大戦の時の日本人の集団心理であり、オウム真理教だと思う。「自我」がない、或いは極めて弱い人が多い日本人、果たしてこれからどうやってみんな「大人」になって行くんだろうか?少子高齢化の進展とともに、好むと好まずに関わらず、この辺の難しい問題に、いずれ多くの日本人がぶつかる事になるような気がする。
 
なお、もう取り返しがつかないが、第二次大戦の時の日本人の集団心理も、オウム真理教も、そこに、慈悲の瞑想の『生きとし生けるものが幸せでありますように』という強い気持ちがあれば、暴走はなかったかもしれない。その意味で、上述した、日本の多くの既存の大乗仏教が、(できれば毎日)、その慈悲の瞑想を行う事を推奨していない事に、大きな不安を感じる。
 
キリスト教やイスラム教等の一神教は、モーセの十戒の「わたしのほかに神があってはならない」という排他性を特徴とする。『生きとし生けるものが幸せでありますように』という気持ちを強く持てば、それは他の信仰や考え方に対しての寛容さに繋がるはずだ。
 
くしくも、既存の大乗仏教を知り尽くしているであろう、宗教学者さんとお坊さんのPRESIDENTの対談で、その『慈悲の瞑想』を重要視するテーラワーダ仏教に対して、(相手側が般若心経を否定するような思想を持っていると思いこんだ上で)、相手側の思想を否定するような言葉があった事に、例えようのない違和感・不安感を感じた。まさにその記事で宗教学者の方がおっしゃっているように、既存の大乗仏教自体が、キリスト教的な一神教的なものを持つようになってしまった事を、自ら証明してしまっているような気がした。もしそれが本当だとすれば、日本では本当の意味での『仏教』が息絶えてしまったという事になるが、さすがにそこまでは行ってないだろう。大乗仏教の諸派、テーラワーダ仏教を問わず、釈迦の説いた本来の仏教の価値・その素晴らしさを、修行等を通して根本から理解しているお坊さんが、日本中に数多くいると信じたい。
 
・・・PRESIDENTを読んで思った、あくまで個人的な感想だが。

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