2016年11月25日金曜日

(280) 補完語 : 帰納と演繹

(237) 「世間」の補完語は「家族」
 
同じように「補完語」と考えた方がいいと思う言葉、
「帰納」「演繹」
自分の理解が正しければ、この2つは車の両輪みたいなものであり、どっちも大切。仮説、検証のサイクルと似ているが、人間の脳は、多分それを繰り返して成長するものだと思う。
 
帰納法(Wikipedia)
 
ここで、「帰納法の早すぎる一般化」という言葉を知った。
(Quote)
特によくあるのは、早すぎる一般化である。帰納法が間違う有名な例として、”「ビールには水が入っている」、「ウィスキーにも水が入っている」、「ブランデーにも水が入っている」、よって「水を飲むと酔っ払う」” というものがある。
(Unquote)
 
なるほど、確かにこういう間違いはやってしまう。だが、それは仕方ない事であり、むしろどんどん間違えないと帰納と演繹のサイクルは回って行かない。この「酔っ払う」のケースなら、「水を飲むと酔っ払う」という仮説を立てた後、本当にそうかどうかを検証する。つまり、水だけを飲んでみる。でも酔っ払わない。だから、仮説は誤りだと解る。だから、水以外の共通成分を探そうという動機が発生する。それを繰り返して、「エタノールを飲むと酔っ払う」という法則を見つけ出す事が出来る。法則を見つけた後は、演繹で応用できる。エタノールを入れた他の飲み物を作ってみよう、エタノールは良いけど、メタノールは人体に有害だ・・・みたいな形で。
 
むしろ今の日本で良く起こりがちなのは、「それは早すぎる一般化だ」という上げ足とり。まるで批評家が偉い、みたいな雰囲気になってしまい、早すぎる一般化という言葉によって、前向きな間違いを冒す事自体を否定してしまうのは、極めて重大な問題だと思う。大怪我しない範囲内で、仮説は間違った方がいい。(間違っていても)仮説を立てる経験は、必ず後に生きる。仮説を立てあい、お互いに説明し、さらにツッコミ合う事で建設的な議論も生まれ、皆の知識も高まり合う。議論が有効な理由の一つは、こういう効果があるからだ。
 
帰納と演繹を反対語と捉えてしまうのは良くない。
『愛の反対は憎しみではなく無関心です』(by マザーテレサ)じゃないが、
『帰納の反対は演繹ではなく思考停止です』みたいなイメージ。
 
特に若い人達には、失敗を恐れず、どんどんいろんな経験をして、帰納法で自分の仮説を立て、何度も仮説の間違いをして、自分なりに仮説・考えを深め、高めていって欲しい。その過程で、きっといろんな友人たちと議論したり、先人たちの本や言葉が面白くなったり、味わい深く感じられるようになる経験をするはずだ。
 
今の日本は、子供が冒険心を発揮できないのが極めて重大な問題だと思う。怪我を恐れて一輪車禁止、近所迷惑だから爆竹ダメ、窓ガラス割るといけないから公園でのサッカー禁止・・・こんな事やってたら、子供がいろんな経験ができない。確かに失敗はしないし、怪我のリスクが下がるから、短期的に親は安心かもしれないが、「失敗を怖れる」という癖をつけるのは、絶対にマズイと思う。失敗しないと成長もない。
 
子供達の成長がなければ日本は海外との競争に負けてしまう。
 
弊ブログ記事、「(208)偉大なるじいちゃん」もご参照ください。

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