2016年11月22日火曜日

(178) いろは歌

2012/4/19加筆・修正
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新しく小学校1年生となった、長男の教科書を見ると、面白い。
まっさらに近い息子の頭(脳j)が、これからどういう知識を、いかに効率的に覚え、
体の成長とともに心も成長していくか、親として日々見守れる事の幸せ、噛みしめたいと思う。
 
いろは歌
 
五十音
 
当たり前のような五十音だが、(あいうえお x あかさたなはまやらわ、5 x 10 = 50)
日々、自分自身の英語の発音の悪さ、聞き取り能力の無さに苦しんでいる自分から見ると、
「あ、これで、我が息子は、日本人としての宿命を背負っちゃったかもな」と感じてしまった。
 
英語のアルファベット、26文字の内、
母音をあらわすのは a,i,u,e,oの5文字。
それ以外は基本的には皆「子音」だ。
五十音(あいうえお表)を覚えてしまう時点で、
"hとf", "lとr", "sとth", "bとv"の音の違いに対して、
「聞き分け、発音できる能力が育ちにくい」
という宿命を負ってしまうような気がする。
 
日本語の特徴は、必ず、どの単位発音文字も、「母音(aiueo)」があることだ。
しりとり遊びで、「ん」が負けになるが、「ん」だけには「母音」がないが、
他は、全て【子音+母音(aiueo)】の組み合わせで発音するルールになっている。
 
俺の時代は、学校に英語ネイティブの先生は、
小学生・中学生はもちろん、高校生になってもいなかった。
日本人英語の発音しかできない、日本人の英語の先生が、俺達生徒に発音の練習を指導してたんだから、
上記の子音の違いの聞き取り、発音が苦手なのは仕方ないと思う。
 
その時代に比べれば、今は小学校からネイティブ英語の先生が教えてくれるようだから、
俺よりは息子は英語は聞き取りと発音が上手になるだろうが、それでも、
「日本語の子音の少なさ」による苦しみは、将来感じるだろう。
ついでに言うと、母音の数も、aとeの中間の音が英語にはあったりして、
日本語は発音数の種類が少ない。
 
多分、これは、「漢字仮名交じり文」に象徴される、
書き言葉・読み言葉に集中する事の副作用みたいなもんで、
漢字仮名交じり文のメリットを享受するなら、多分、
発音の方をある程度犠牲にせざるを得ないと言う事だろうと思っている。
 
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さて、冒頭の「いろは歌」について。
 
色はにほへど 散りぬるを
我が世たれぞ 常ならむ
有為の奥山  今日越えて
浅き夢見じ  酔ひもせず
 
これを作った先人は、間違いなく「天才」だと思う。
実際には「47文字」である平仮名を、過不足なく使い、
かつ、般若心経にも通じるような、「無常」を歌に詠みこんでいる。
こういう歌を見ると、「歴史のロマン」の妄想についふけってしまう。
 
いろはにほへ
ちりぬるをわ
よたれそつね
らむういのお
やまけふこえ
あさきゆめみ
えいもせ
 
7文字ずつ並べると、「咎なくて死す」(罪もないのに死ぬ)
という暗号(?)が現れる。
 
「仮名手本忠臣蔵」という歌舞伎の演目があるが、
忠臣蔵のテーマ自体が、おおっぴらに、「罪もないのに死ぬ」
と言えないような内容を、直接口には出さず、婉曲に庶民の心に伝える、
みたいな性質があったんだろうと思う。
 
現代でも、例えば、欧米では「ジーザスクライスト・スーパースター」というミュージカル、
日本なら、最近のドラマ、「家政婦のミタ」など、
娯楽、映画、演劇、舞台、テレビ、小説、マンガ、等々は、時に、
その時代を生きる人が持つ、「(時に潜在的な)知識欲求、不満」を上手に
具現化、可視化し、人に感動や、刺激、学びを与える、という役割を担っているが、
 
日本では、歌舞伎が上演され始めたであろう、江戸時代(?)に、
これと同じような文化が育っていたんだろうと思う。
 
これを最初に知った時、結構感動した。
しかし、問題は、この面白さは、多分「日本語圏」でしか伝わらない事だ。
大勢の外国人の方に、上記した「いろは歌」の面白さが解るようなレベルまで、
日本語や日本文化を勉強してもらうというのは、結構ハードルが高いと思う。
 
将来、出生率が今の1.2~1.3のまま、今の日本の少子化が進んでいけば、
仮に途中で移民を受け入れても、(幼少期からの)日本語の教育、
特に、移民の方の子供達の教育をどうするかという問題は出て来るだろう。
 
認めたくないが、今のまま進めば、超長期で見れば、
日本語は絶滅する方向に向かってしまう気がする。
グローバル化の波で、世界の言語・文化は、超マクロで見れば
全て英語化・画一化の方向に進み、
日本語の方が第二言語化していく恐れを感じる。
 
多分、俺が死ぬまでは大丈夫だろうが、
俺の息子、もしかすると俺の孫か曾孫の代の子孫の事を考えると、
非常に悩ましい。
 
今の俺ですら、6歳&4歳の息子達の幸せを考えた時、
「本当に日本語を母国語にする事が、息子の幸せになるんだろうか?」と心配になっている。
「もしかして、もう、息子は、英語を第一言語にさせた方が、将来安定した生活が得られるかもなあ」
と、半分以上本気で感じる。私の数少ない同年代の友人たちも、似たような事を言っている。
 
但し、今のところは、この不安は、「パトリオティズム」によって、
「多分、考えちゃだめだ」と自分自身に言い聞かせ、踏みとどまるようにしている。
もし、こういう考え方をする人が多数派になり、皆が実際の行動に移せば、それは多分、
日本人の平均的英語能力向上の反作用として、
日本人の平均的日本語能力のレベル低下を加速してしまう。
 
「ガラパゴス」に住んでいる日本人である私。
「日本語」という母国語が、
「ガラパゴス方言」なのか、それとも、
「世界最先端を突き進むガラパゴスの、最先端の言葉」なのか、
その答えが解らない。
 
現時点では、これから、どっちの道に進む可能性もあると思う。
多分「批評家」が大勢いすぎる今の日本の状態が続けば、
「ガラパゴス方言」として、いつか日本語は絶滅するだろうな、
と私は真剣に考えている。
 
「日本語の絶滅」という方向へ、時計の針を進めると言う事が、
今の日本を生きている、私を含めた日本人で選ぶ総意であるなら、
それは仕方のない事なのかとも思う。
 
しかし、今を生きる一人の日本人として、
自分自身のご先祖様達が作り上げてくれた日本文化や、
海外と比べて、まだまだ「生きる事が快適」という環境をもらたしてくれている、
労働者でもある、我々一人ひとりが作り上げている無形インフラ、
こういったものが壊れて行く方向に、時計の針を進めてしまっている事に、
表現しようのない罪悪感・悲しさ・人間のエゴの醜さに対しての嫌悪感、
そういうものを感じてしまう。
 
・・・約2ヵ月間に渡り、いろいろこのブログに投稿してきたが、
残念ながら、どうやら俺の一連の意見・考えは、
現時点で、世間の人には十分伝わらない、或いは、理解してもらうのが難しいらしい。
俺自身の力の限界を感じ始めた。
(でも、俺の方が待てば、世間の側が興味を持ってくれ始める可能性は、まだ残っている)
 
ま、なるようになるだろう。
 
俺の使命・生きる意味は、俺が生きている間、俺自身と、俺の妻と、俺の息子達の幸せを確保し続ける事。
それでも余裕があるなら、両親と祖母への親孝行、幸せなあの世への旅立ちを見送る事。
そこから先の、生きとし生けるものへの貢献は、できる範囲内でやればいい。
サラリーマンとして社会人として労働して、納税し続けてるんだから、誰にも文句言われる筋合いはない。
 
思っていた事は概ね、これまでの178件のブログ記事に、ほぼ全て書き切って、だいたいすっきりした。
ここまでやったから、後は日本がどうなるかは天に任せよう。
 
批評家の人やら、上げ足とりやら、俺をメンヘラ呼ばわりする人の相手に時間を取られ過ぎると、
しんどいし、アホらしいし、金もらってる訳でもないので、やる義務もなければ、
必要性も全くない。何より、飽きちゃった。
ネットの弱点の一つは、
「実数以上に、世の中には、上げ足とりや批評家がいるように、思えてしまう事」
だな。多分。
 
「ブログを読んで下さり、なるほどな、と思ってくれたけど、コメントを書くほどでもない」という人が仮にいてくれたとしても、ブログの書き手である俺の側には、その実数が解らない。素通り・チラ見してくれた人との間で、俺の側では区別がつかない。
 
Facebookにあるような、「いいね!」ボタン、このブログにもつけられるといいなあ・・・
 
もしかすると、「解りやすい炎上の燃料」があって初めてコメントって本格的に増えるのかもしれないが、そこまでして訪問者数を増やしたいとは思わないし、何より、俺は小心者なので、炎上は絶対にヤダ。
 
これで書いてきた、またこれから書いていく記事には、もちろん俺の思い違い・勘違いも含まれるだろう。
でも、それはそれで、加筆・修正しちゃえばいいし、面白い勘違いなら、あえてそのまま残しておいて、
「馬鹿だったな、俺」と自分で笑っちゃえばいい。

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