2016年11月21日月曜日

(116) 名前(姓名)

我々が普段当たり前に使っている、
我々自身の「名字(姓)」と「名前(名)」
これを日本と、外国と比較すると、実は相当深い意味を持っているらしい事が解る。
多分、このブログの記事だけでは到底書ききれないが、一応、俺が気付いた所まで書いてみる。
 
1.日本人の「姓」の位置づけの重要性について
 
このサイトによると、日本人の「姓」は、7,000種類あるらしい。
おそらく、世界中で、ここまで「姓」の種類が多い国は、日本以外存在しないと思う。
この事は、日本と言う国が、いかに、「家族」という構成単位を重要視しているかを暗示している。
 
仮に、佐藤太郎さん(Taro Sato)という人がいたとする。
例えば、アメリカ人同士なら、
相手の呼び名を「佐藤さん(Sato-san, Mr.Sato)」と呼ぶ事は、
日常生活では稀である。
 
First name(名)の方で呼び合うのが通例であり、
それは会社の上司と部下でもそうである。
"Good morning, Taro!", "Hello, Mike!"
であり、下の名前で呼び合う。
 
名字を使うのは、どちらかと言うと、堅苦しい場面、
例えば、ホテルで宿泊するような場合、
「Mr. Sato」と、姓の方が用いられる。
 
対照的に、日本で、
「太郎」と、佐藤太郎さんが呼称されるのは、
祖父母、両親、(付き合っている)恋人、かなり目上の人ぐらいである。
 
日本で、同姓の人と出会う事は多いけれども、
それでも、職場や学校等で、
「佐藤さん」「鈴木さん」「高橋さん」等々、
名字で呼び合っていても、それ程不自由は感じない。
これは、日本に7,000の名字があるからこそ達成できる事であり、
実はこれって、結構凄い事だと思う。
 
 
2.日本の「名」を名付ける、という習慣について
 
人にもよるだろうが、私の場合、
私自身の下の名前の名付け親は、私の両親。
私の2人の息子達の名付け親は、私達夫婦。
つまり、我が一家では、「親」が生まれたばかりの赤ん坊の名をつけている。
俺自身、結構息子達2人の名前をつける時には悩んだ。
こういう大人になって欲しいという願い、画数、名字との音のバランスなどなど。
 
今の人気の名前ベスト1000・男の子版
俺の息子の通っている幼稚園にも、
このベスト10に乗っている名前の友達がたくさんいる。
 
その一方で、アラフォーの俺の40歳前後の友達には、
このベスト10に載っている名前を持つ人はあまりいない。
と言う事は、日本では、30年くらい経つと、「人気の名前(名)」が変わっている。
 
アメリカ人の場合、"Mike", "Robert(Bob)"など、
年代を問わず、メジャーな名前(名)は同じであるのと、これも極めて好対照だ。
 
日本人の持つ一人ひとりの「名」の重みは、
少なくとも、アメリカと比べて、「重い意味」
特に、先祖からの思い、願いを受け継ぐと言う意味を持っている
 
 
3.名字を呼ばれ続ける事で、無意識のうちに感じる「家の代表者」としての責任感
 
儒教国である事を再認識させられるが、
「佐藤さん」と呼ばれる事で、多分、佐藤太郎さんは、
「悪い事」がやりにくいというプレッシャーを無意識の内に感じる。
自分が悪い事をすると、両親を始めとする「佐藤一族」に迷惑をかけるから。
実際、今でも、日本では、犯罪者の両親を、マスコミが追いかけ、反省の言葉を迫ったり、
アイドルのスキャンダル(?)で、そのアイドルの母親が淫行条例違反で起訴された事を、
マスコミが報道したりする。
多分、キリスト教国のアメリカでは、こういう事は起こりにくい。
パパラッチが追いかける事はあっても、それは、「親子同罪という面がありますよね」
という、日本的な、親子の共同責任を(暗黙のうちに)強要するようなものではない。
「親と子であっても、神の下で平等な、別々の独立した、尊重されるべき個人」
という自己責任の原則は、アメリカでは、ここでも機能している。
 
同じ儒教国の韓国との対比も興味深い
「キム・ヨナ」
「ヨン様(ぺ・ヨンジュン)」
「ギュリ・スンヨン・ニコル・ハラ・ジヨン(人気アイドルグループ、KARA)」
韓国の人も、やはり名字で呼ばれる事を好むらしい。
しかし、日本と違い、漢字教育からハングル語(表音文字)に切り替えてしまっているので、
名字の種類は多分「7,000」も存在しえない。
と言う事は、日本と同じように、名字だけで呼び合おうとすると、
「佐藤さん」が大勢いすぎて、50人くらいの学級だと混乱が生じるんじゃないだろうか?
 
仕事で付き合いのある、中国の人は、
ほとんど例外なく、皆、「American Name」を名刺に書いている。
名刺の英語側は、"Jack"や"Tony"などの欧米式の名前(名)
裏面の中国語(漢字)側を見ると、俺の知り合い(10人くらい)を見ると、
姓は皆「1文字」だけ、
名も、半分以上が「1文字」残りも、「2文字」
 
日本の人口1億人に対して、10億人(?)の中国の人達、
この数じゃ、「ひとりずつひとつ」(by ゴダイゴ)、中国の人に名前を割り当てるのは
漢字の数が足りず、不可能に近いだろう。
 
つまり、おそらく、日本と言う国ほど、
「姓と名」を組み合わせて、
「ひとりずつひとつ」の名前を国民一人一人に割り当てると言う
理想に近い状態を達成できている国は、
極めて稀であると推定できる。
(ちなみに、ネットで調べたところ、俺の場合は、
日本に俺と同姓同名の人が結構大勢いるらしい。日本もでかい国だなあ・・・)
 
我々日本人は、
自分自身の姓・名に対して、
もっとプライドを持って良いと思う。
 
たまに日本人なのに、名刺の裏側(英語表記側)に、
American Nameを名として書いている人を見かけるが、
俺は個人的には賛同できない。
 
私は、
アメリカ人に対しても、韓国の人に対しても、中国の人に対しても、ヨーロッパの人に対しても、
「Please call me "Sato-san"」(注 : 佐藤さんは仮名です)
と、英語で初対面で自己紹介する時にお願いして、
必ず「名字+さん」で呼んでもらえるようにしている。
俺の本名の名字は、アメリカ人には舌をかむような名前らしく、
初対面できちんと発音してもらえるケースは稀だが、そこは我(ガ)を通している。
 
極論すると、俺の場合、このように自己紹介する事で、俺自身、
「俺は自分が日本人である事にプライドを持っている。俺はパトリオティズムを持っている」
とさりげなくアピールしているつもりである。

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