2016年11月18日金曜日

(111)般若心経の日本人の解釈は間違っているのだ~

引き続き、「ワシはバカボンのパパなのだ~」シリーズ。
故 赤塚不二夫先生、何卒ご容赦下さい。
 
アルボムッレ・スマナサーラ長老が、著作、
「般若心経は間違い?」(宝島社新書)で述べられているように、
多分、今の大乗仏教系のお坊さんのほとんどが説明されている、
般若心経の解釈は、多分、「間違っている」のだ。
 
同じように考えられている方もいらっしゃるのだ。
 
自分なりに、多分、釈迦の教えと食い違っており、
おそらく、後世の人の創作だと思われるポイントは次の通りなのだ。
 
①色即是空は正しいが、空即是色はおかしい。
多分、空即是色は、後世の人が、「このままでは虚無主義(ニヒリズム)になってしまうのでは」
と考え、庶民向けには、「空即是色」も入れといた方がいい、と考えたんだと想像する。
結果的に、現代の我々日本人にとって、「空即是色」を入れてしまった事は多分、「大きなお世話」
我々現代人はそんなにバカじゃない。空即是色がない般若心経の方が、腹に落ちる。
 
②舎利子(サーリプッタ尊者)を下に見ちゃだめです。
般若心経の解説本の大部分で、「舎利子よ」或いは、「サーリプッタよ」と、
悟りを開いた釈迦が、自分が先生であるような立場から、
弟子であるサーリプッタに諭すような形で訳しているのは、多分大きな誤解を生む。
「上から目線」で訳すのは大反対。それは、多分、儒教の影響を受けてしまっている。
 
そうじゃなくて、釈迦と、サーリプッタ尊者の関係は、おそらく、
「共に悟りを目指す、修行仲間」
「初期仏教教団でのヒエラルキー上は、釈迦の方が偉かっただろうが、
それは現代で言う上司と部下の関係とは全く違う」
「お互いに修行をし続ける中で、釈迦が、自分の心を実況中継している中で出た言葉
が、般若心経の言葉」
と考えた方が、本来の釈迦の教えにより近づく。
 
・・・だとすると、和訳のやり方としては、
「釈迦が自らの悟りへのプロセス(ヴィパッサナー瞑想中?)に、脳を酷使し、悩んでいる過程で、
それをサポートする役であるサーリプッタ尊者に対しての言葉として」
「(我が修行仲間の)舎利子(サーリプッタ)、色は空(実体がない)、眼耳鼻舌身意、ありとあらゆるものは実体がない・・・」
と言う形で訳して行った方がいいと思う。
 
舎利子を下に見るのは、大乗仏教の悪い癖であり、それによって、我々庶民が
悟りへと少しでも近づき、幸せになる道を邪魔している
(むろん、悟りを得るのは庶民には極めて難しい。
しかし、悟り方向に一歩近づくだけでも、現代人の心は相当救われる。)
 
「これらの意見を、最初から聞こうとしない、或いは、考えようとしない、
議論から逃げようとする、間違いだと否定する、そういう大乗仏教関係者は、
既得権益にまみれ、現代日本人の役に立っていないのだ。」
 
「これでいいのだ」

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