2018年6月3日日曜日

(478) ミッシングワーカー

6/2にNHKで放送された「ミッシングワーカー」を見て、落ち込む。

今から約10年後、自分自身がそうなってしまうリスクがある。
恐怖感がものすごい。

尊厳死、安楽死という言葉がどうしても頭に浮かぶ。

憲法では、国民誰もが健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を保障しているが、
もう医療や介護福祉は明らかに崩壊している。
従って、「最低限度」のレベルは今後下がり続けてしまうだろう。


それでも明るく生きる、笑って生きる、健康を維持する、
というのが教科書的な正解なのは解っている。

だが、ミッシングワーカーで取り上げられた
希望を見出すのが難しい実際のケースを見て感じたのは、
(道徳的、現実的にどうするのかは分からないけれども)
尊厳死(今の法律では自殺、もしくは誰かが殺人罪に問われる)
という道も、誰かが悪者になり、非難される役になってでも
作らざるを得ないのでは?という思いだった。

「あと一歩が踏み出せない」「弱虫」
と相談に来た50代のミッシングワーカーの方に対して、
「そんなこと言うと怒るよ」
「困ったら相談してと言ったでしょ」
と(間違いなく正しい)言葉をかけた福祉事務所の方の言葉に、
『これはもう、解決策が存在しない』
と、本音の部分で感じてしまった今の私。

とは言いつつも、他の人の事を心配する余裕なんてどこにもなく、
私は妻と子供たちと自分自身のために、
明日も給与を稼ぐために働くことしかできない。

仕事を失ったら、また失業者に、
そして就職できなければミッシングワーカー一直線だ。

人数が増えすぎた我々氷河期世代に、
自然淘汰の摂理の津波が襲いかかって来ているように思える。

不運にもその淘汰の対象になってしまった時、
果たしてその摂理に逆らってまで生き続けねばならないのか?
苦しまずに、極力周囲に迷惑をかけずに死ねる道があるのなら、
その方が幸せなのではないか?

こんなこと考えちゃいけない、というのが、
私がこれまで習って来た道徳だが、
その道徳が揺るがされてしまう、
「ミッシングワーカー」は、
私にとってそんな番組だった。

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