2016年11月29日火曜日

(318) 画一化と多様性

最近、いろんな所でいろんな人が言っているように、世界は画一化方向に向かっている。
 
つい最近、森美術館で個展を開かれている、会田誠さんの著作『カリコリせんとや生まれけむ』を読んで、改めて芸術家の鋭い感性に驚いたが、会田さんは数年前に、既にその事に対して違和感を感じ、警告を発せられている。
 
人間の脳が感じる快適さは、そんなに大きな違いがないので、現代のようなグローバル化、ネットワーク化が進めば、画一化の方向に進むのは必然。和式便所は淘汰されて洋式便所になり、郊外の街並みは均質化し、日本は標準語(アナウンサー言葉)化し、世界は英語が共通言語としてより力を持つようになっている。
 
しかし、生物の本来の姿を考えた時、画一化はリスクでもある
 
太古の昔に遡れば、恐竜が地上で食物連鎖の頂点に君臨していた時代は、『巨大であるべし』という画一性が、種としての存続のために有利だったのかもしれない。しかし、自然は、そのルールを根底からひっくり返した。隕石の衝突なのか、原因は諸説あるのかもしれないが、地球の氷河期の突入という自然環境の変化が、巨大という画一性を持った恐竜を絶滅させた。
 
最近の話なら、『津波てんでんこ』
大自然の猛威・予測不可能である事の前では、(画一的に)皆で一緒に行動するよりも、バラバラになった方が、種として存続できる確率が上昇するという事を、津波の被害に遭い、その恐ろしさを理解した防災の専門家の先人達が『言い伝え』という形で現代を生きる子孫達に残していてくれたのかもしれない。
 
地球上には多種多様な生物が存在している。多様性があるからこそ、予想もつかないような自然環境変化が起こっても、何らかの生物は(他の種族が絶滅しても)、地球上に存在し続けられる、とも解釈できる。そこに人智を超えた『神』がいるかどうかを考えるかは、信仰の自由の領域だと思うが。
 
人間に、様々な人種がいるというのは、もしかすると多様性の結果なのかもしれない。大昔(数千年前?)は人間の平均寿命も短かった。ヨーロッパ・アフリカ・アジア・北米・南米・北極圏・・・・それぞれの自然環境の中で、最も生存に適したヒトが結果的に残り、だからこそ、ヒトには様々な人種が存在しているのかもしれない。
 
文明の発達により、人間は世界を画一化できる方向に進めることができている。
 
しかし、巨大化した恐竜が絶滅してしまったように、その時に最適だと思い込んでいる画一化が、必ずしも生物としての生存に適するかどうか、その時を生きている自分達には解らない。恐竜にとっての氷河期のような事が起こらないとも断言できない。
 
はて、画一化は本当にいい事なんだろうか?
 
私自身は、ささやかではあるものの、画一化に抵抗して、昔ながらの日本人らしさ、具体的には家族主義を守りたいと思っている。
 
なぜ、日本人のご先祖様は、『言い伝え』あるいは『文化』として、家族主義(副作用として世間のわずらわしさ)を残してくれたのか?
 
『家族の中の事には口出ししない』というルールは、見方によっては、『家族ごとに多様性を確保する』という合理性があるのかもしれない。
 
つまり、『~家の家訓』、『家族内だけのルール』的なものが、各家族でバラバラであるからこそ、日本人全体としてみれば多様性を確保できる。自然・外部環境が変われば、ある時栄えた家族が衰退し、突拍子もない家訓・ルールを持っていた家族が逆に繁栄する事も起こり得る。

ひょっとすると、我々日本人のご先祖様達はそこまで理解しておられたからこそ、
『家族の問題には立ち入らない』という仕組みを構築されたのかもしれない・・・

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