2016年11月25日金曜日

(289) 『愛』の補完語は存在しない?

(237)「世間」の補完語は「家族」の続き。
 
マザーテレサの名言で、
『愛の反対語は無関心』という言葉があるそうだ。
これについては、以下の知恵袋の質問の、ベストアンサーの通りだと思う。
 
一方で、237に書いた通り、養老先生がおっしゃっている通り、世の中で「反対語」とか「対義語」とか呼ばれるものは、「補完語」という呼び方もできると思う。
 
上下、左右、内外、高低、貧富、格差と平等、好き嫌い、男女、大人と子供・・・
いずれも、一方の概念がないと、もう一方の概念は成立しない。その意味で、お互いを補完し合っている。
 
じゃ、『愛』の補完語は何なのか?
「愛憎」という言葉があるが、これに関しては、上述した例とは若干異なり、「一方の概念がないと、もう一方の概念が成立しない」と言えない気がする。
 
つまり、私のような凡人、一般人には相当ハードルが高いだろうが、
ものすごく心を清らかにすれば、限りなく広く深い「愛」を持ちつつ、「憎」の気持ちがないような人を想像できる。
イエスキリストや、ブッダ、マザーテレサなどの聖人のイメージは、まさにそれだ。
 
つまり、『愛』という言葉には補完語は存在しない。
 
家族愛、親子愛、友人への愛(慈しむ気持ち)、先祖への愛、子孫への愛、母国への愛、生きとし生けるものへの愛、地球への愛・・・
 
これらをどんなに膨らませても、誰も困らないはず。
もし「困る」と言う人がいるとすれば、それは「嫉妬」みたいな感情のはずだから、無視すればいい。
 
テーラワーダ仏教の『慈悲の瞑想』は、まさにこの心を鍛える手段、具体的な方法論だと思う。
テーラワーダ仏教(上座部仏教)は、お釈迦様の教えをもっとも忠実に受け継いでいるそうだ。だから、私は日本にある既存仏教の中では、テーラワーダ仏教が一番好きだ。
 
いろんな仏教宗派があるし、もちろんどの宗派にも素晴らしいお坊さんが大勢いらっしゃるんだろうが、組織が巨大化すると、首をかしげたくなるようなお坊さんも現れるだろう。「葬式仏教」と揶揄される現状は困ったもんだが、実際、大乗仏教の大勢のお坊さん達にも自分達の生活があるんだろうから、その辺は難しい問題なんだろうと思う。
 
私が大好きなギャグ漫画、「聖おにいさん」に出て来る、ブッダとイエスは、(すごく世俗的に描写されてはいるんだろうけれども)「愛」に満ち溢れていて、読んでいると、すごく心が温まる。
 
生きとし生けるものが幸せでありますように。
 
皆様、良い週末をお過ごしください!

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