【(196) ルシファー】の続き
キリスト教圏でのエッジな人々の表現を見ると、結構面白い。
ルシファーの事を、「進歩と知的探求の神」とおっしゃった、レリファス・レヴィと言う方は、
19世紀を生きられた、「詩人・魔術師」だったそうだ。
「魔女狩り」と言う言葉は日本でも有名だが、多分、ヨーロッパでは、「魔女狩り」と称して、一神教的な信仰に対して攻撃する「エッジな人」を言論封殺した歴史があったんだろうと思う。だから、「ルシファーは知的探求の神」という言葉が出てきたんじゃないかと想像する。
この辺の話になると、俺の妄想は留まるところを知らなくなる。
連想したのは、ダン・ブラウンさん。
「ダヴィンチコード」
「天使と悪魔」
いずれの小説とも、日本語で読んだ小説が、とてつもなく面白く感じた記憶がある。
感じたのは、「宗教に対しての疑問を、小説という形で提起している」という強いメッセージ。
「ダヴィンチコード」の映画化の時、何かのニュースで、ヨーロッパで真面目なキリスト教徒が上映に猛反対したとかいうニュースを見た。おそらく、小説のメッセージに「やばさ」を感じたんだろう。
でも・・・結果的にその心配は杞憂に終わった。
何故なら、映画が全然面白くなかったから。
多分、小説に書かれていた情報量、メッセージ性の深さ、時間的な経過の表現とかを、
たかだか2~3時間の映像表現に凝縮する事は、いくら何でも不可能だったからだろう。
逆に言うと、俺自身が、日本語で書かれた「ダヴィンチコード」の文庫本の小説を読んで数年前に相当な衝撃を受けた事自体、奇跡的な事だと思う。
「漢字仮名交じり文」「日本人の中にそれだけ読む人がいる需要」「有能な翻訳者」
これらが全てそろったから、俺の感動があった。
「宗教(キリスト教)に関しての疑問の提起」
という観点で連想するのは、以前のブログで書いた
ミュージカル、「ライオンキング」。
これも、すごくまじめな、キリスト教右派の人達は、内心あまり面白く思ってないんじゃないかと感じる。
同様に、俺は
「ジーザスクライストスーパースター」という劇団四季のミュージカルを見て、
これまた結構な衝撃を受けた。
多分、これ、日本で言う所の、「仮名手本忠臣蔵」みたいな感じで、既得権側(欧米ならキリスト教)への、文化的な抵抗を表現している。劇団四季のミュージカルでの以下の歌(これ、以前にテレビのミュージックフェアでも見た。カッコ良かった。)が象徴的。
「私は理解ができない~。大きな事をしなければ こんなにならずにすんだのに 時代もところも悪かった」
・・・つまり、既得権的になってきたキリスト教会側(?)が、偶像化、神聖化し過ぎたイエスキリストを、一人の普通の人間として見ようとしている。
下ネタで恐縮だが、俺がムラムラとした思春期真っただ中だった20年以上前に、Hなビデオのタイトルで、「ジーザスXXXスーパースター」というビデオがビデオ屋に山ほど並んでいた。と言う事は、既に20年前の時点で、日本では上記ミュージカルが、大勢の日本人に何かを訴えかけていたんだろう。
俺自身が10代後半だった頃に、先にエロビデオのタイトルからその名を記憶に深く刻んで、30過ぎて、妻に勧められて劇団四季のミュージカルを見て、「あ、あのHなビデオって、このミュージカルからタイトルをパクッたのか!」と気付いたというのは、個人的には結構すごいエピソードなんだが、妻も含め、誰にも話せないので、とりあえずこのブログに書いてみた。
今日も日本経済新聞朝刊、「私の履歴書」の連載で記事を載せられている、蜷川幸雄さん然り、
週間SPA!の長期連載「ドンキホーテのピアス」で、10年来の大ファンである鴻上尚司さん然りだが、
劇作家、演出家の方達のセンス、表現力、洞察力には、感嘆の念を禁じえない。
東野圭吾さんの小説
「パラレルワールド・・・」(読み終えた)
「変身」(読み終えたが、衝撃がきつすぎた)
「分身」(もう少しで読み終える)
これらを読んでいる影響もあるんだろうが、何と言うか、
自分の脳の中にある、壁みたいなもの、
時にそれを壊そうとすると、「恐怖」や「恥ずかしさ」を感じるようなもの、
それらに近付き、壁を越えたような気になる時の快感、これがたまらない。
個人的には、これこそが「バカの壁」だと考えている。
自分の脳の中の「バカの壁」を壊し続ける事で、人間は成長していく。
つまり、「バカの壁」を壊せない、壊さないままだと、人間は「バカ」のまま。
俺自身は、俺自身のために、日々、自分の脳の中の「バカの壁」を破壊しようとし続ける人間でありたい。
多分、そうすると、結果的に人生もうまくいくし、生きるのも結構楽しくなるんじゃないか、
というか、6歳と4歳の息子見てて思うんだが、子供って、
みんな、本能的に「バカの壁」を壊そうとし続ける。
要するに「好奇心」とも言える。
大人になって、いつの間にか自分の心を守り、楽をしようとして、「好奇心」を忘れている。
息子を見ていると、どっちが先生なんだか、良く解らなくなる時がある。
少なくとも、「好奇心」に関しては、明らかに親が手本とするべきは、子供たちだよなあ、としみじみ思う。
あー、悪い癖で、思考がとっちらかっちまった。
ま、たまにはいいだろう。俺のブログだし。
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