2016年11月22日火曜日

(195) たりない二人

昨日の週間SPA!の、エッジな人々で出ていた、「たりないふたり」が、めちゃめちゃ面白かった。
南海キャンディーズの山里さんと、オードリーの若林さん、
SPA!の記事を読みながら、電車の中で笑いをこらえるのに必死だった。
「たりてない」という言葉を、俺は個人的に、今年の流行語大賞にして欲しいと思うくらいだ。
 
昨日から、「ちっちゃい」俺自身に対しての、何ともいえない、
俺自身が20代前半だった若い頃の悶々とした感覚、
「こんな俺じゃだめだ、もっと俺、ビッグにならなきゃ」というか、
「熱く生きなきゃ人生じゃない、俺、ちっちゃくまとまっちゃダメだ」
みたいな、40歳に近付いてきて、忘れかけていた熱い思いが蘇っている。
 
勿論、妻と息子達2人のために、真面目に働いて、父親として子育てをしっかりやらなきゃダメだし、
自分を甘やかすなら、
「それだけで大人として立派。勤労、納税、教育の国民の3大義務を立派に果たしているし」
こう考えるのは間違いじゃないし、特に、仕事とかでぐちゃぐちゃで、精神的に参ってる時は
そこに留まっていて全然問題ないんだが、
「それだけじゃ、つまんないだろう」
「男たるもの、なんか、デカイ事やってやらないと、死ぬ時後悔するんじゃないか?」
自分の人生経験を後輩に話しながら、「ワイルドだぜ~」とかギャグ言って、
笑いながら、飲み会の席で後輩たちに言えるような、カッコいいオヤジになってやりたい、
みたいな、忘れかけていた熱い思い自体が「快感」だ。
 
そこで、また師匠にコメントで言われた言葉と、上記「たりないふたり」とが俺の中で繋がった。
師匠が言ってた言葉は、「来る者拒まず去る者追わず」だ。カッコいい。
 
俺自身、なんか「たりてないよな」と思ってたんだが、気付いた。
俺は過去、
「来る者拒んで去る者を追う」という人生を、多分歩み続けている。
ストーカー気質なのかもしれない。
 
俺の場合、基本的に「友達」を心の底から多分信頼していない。
だから、「来る者」に対して警戒心が結構強く、「距離を置こう」とする。
 
逆に、あ、「この人、何か持ってる、この人と近づきたい」と思うと、
相手の気持ち関係なく、「追っかけて、話そう」としてしまう。
 
そこにあるのは、実は自分自身の汚いエゴであって、
自分の成長のために一方的に追っかけて、相手を「利用したい」という強い欲求だ。
 
多分、かつて俺がまだ若かったころ、
相手側が「親友」と俺の事を誤解し、俺の方が距離を置こうとして、「逃げて」、
相手側が俺に対して強い恨みを持ってしまったのは、
実は、最初は
「俺の方が凄い勢いで近づいていって」
「俺が相手を利用して、学ぶ所がなくなったと思ったら捨てた」
という状態だったからだったんだろう。
天に誓って、俺は、その時には悪気はなかったんだが、本当にその友達には悪い事をしてしまった。
心から反省している。
 
我ながら、その時の俺って本当に酷い奴だ。
 
そう思うと、今の俺は認めたくないが、実は、株式掲示板で、
俺と激しくやり合っている人との関係、これに似ているのかもしれない。
 
事実、これも、あまり認めたくないが、
俺自身ここまで匿名掲示板への投稿スキルや、
ブログへの投稿、ブログの使い方、等々に、この3カ月の間に急激に成長できたのは、
その相手の人を「追いかけた」からだ。
「もう嫌だ」「ふざけんな、こいつ」という気持ちの奥底に「楽しい」という思いがあった事、俺は否定できない。
 
もし、「追いかける」という事を俺がしなければ、俺自身の成長は多分なかった。
その意味では、俺にとっては「追いかけて」良かったんだが、
相手の人にとってはどうだったんだろうか。
 
もしかすると、
「一方的に追いかけて、用済みになったらバイバイか??
お前(michitenji)、単細胞で単純な奴の振りしてるけど、実は極悪人じゃねーのか?」
という感覚を持たれて当然なのかもしれない。
 
悪魔ルシファーが実は元天使だったり、「堕天使」という言葉があったりするが、
そもそも、「善」とか「悪」なんて、見方を変えれば変わったりする事もあるので、
「俺には極悪人という面もある」というのは、全くもって、その通りなのかもしれない。
 
でも、人が生きるって、そういう事じゃないのか?
死ぬ時に後悔しないような人生送ろうとしたら、「自分の夢」に突き進み続けた方がいいと思う。
その過程で、「敵」ができたり、「恨まれたり」する事を恐れてビクビクし過ぎてるなら、
それって大した夢じゃないってことだろう。
 
日本人自体、「空気を読む」のはいい文化だし、素晴らしいし、俺は大好きなんだけど、
「空気を読んで」「いいひと」でい続けようとすると、
どっかで、「でっかい自分自身の夢」を追いかける事と対立してしまわないか?
 
俺は「たりてない」んだが、「たりないふたり」が凄く漫才として面白そうであるように、
「たりてない」からこそ、社会にとって価値がある何かを創造できるんじゃないか、という気もする。
 
「天才と狂気は紙一重」
「天才は、何か欠けている部分もあり、日常生活を送るのに支障がある人も大勢いた」
などという言葉も連想してしまう。
 
37歳の俺はこれから、
「たりてない」所を補おうとする方向(庶民、凡人になる方向?)に生きればいいんだろうか?
「たりてない」と開き直って、そのまま天竺を目指せばいいんだろうか?
 
40にして惑わず(by 孔子先生)なので、あと3年、考える時間はある。
じっくり、3年間、惑い、悩みまくろう。
これって、きっと前向きな悩みに違いない。

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