私の悪い癖で、発散思考が少々暴走気味。
でも、こういう時に思いついた事は、後になって読み返すと結構いろんな考えるタネがあったりするので、記録として書き残しておきたくなる。
・・・もっとも、どんどん独り言・哲学の世界にハマり込んでいくので、他の人からの反応がなくなってしまうのが悩ましいけど。
タイトル名も、「ブログ」改め、「つぶやき」に変えた事ですし、読んでいただいている皆様、何卒ご容赦のほど。
さて、これまで、日本語脳の場合は「虫の目」的、英語脳の場合は「鳥の目」的という趣旨で、何件も記事を書いてきたが、別の言葉が思い浮かんだ。
日本語脳の場合は「相対座標」的。
英語脳の場合は「絶対座標」的。
とも言いかえる事ができる。
前の記事で触れた、「先(さき)」という言葉が、日本語が相対座標的であるイメージを持ちやすい。
観察者である自分から遠い場所を「さき」と呼ぶので、未来にも過去にも、つまり、時間軸がプラス方向にもマイナス方向にも遠ざかる方向に同じ言葉を使っている。
それに対して、絶対座標的である英語では、この日本語で言う所の「さき」に相当する単語は存在しないと思う。絶対座標なので、過去ならpast, beforeなど、未来なら、future, afterなど、時間軸のベクトルが明確に規定されている。
ここからさらに発散思考する。
以前、養老先生が、AERAの冒頭のコラムに書かれていたんだが、自我(アイデンティティ)というのは、カーナビで例えると、「現在地表示」に相当するとおっしゃっている。地図があっても、現在地が解らなければ、カーナビは機能を果たせない。
私の考えでは、この「自我」も、日本語脳(日本人)の場合は「相対座標的」、英語脳の場合は「絶対座標的」だと思う。
日本人の場合は、周囲の顔色を伺い、空気を読む傾向が強いが、周囲の状況を確認しながら「自我」を確認し続けると言うのも、立派な「自我」だと思う。カーナビで例えるなら、常に、自分の周囲の環境変化に気を配り続け、自分の現在位置を常にチェックし続けているようなイメージ。やり過ぎると気疲れするけど。別の観点では、妻と結婚して、息子達が生まれて、『お父さん』としての責任感が生まれたアラフォーの私。これだって、「自我」だと思う。
対して、英語脳の場合は、「私は絶対にこの位置にいる」と思い込む傾向がある。
絶対座標系で言うなら、自分の場所は(X, Y) = (10, 10)のポジションであり、そこから動かない、みたいな感じ。
周囲の人がどの場所にいようと関係ない。自我がしっかりしているから、空気は読まないし、読めない。
これも、いい面と悪い面がありそう。
絶対座標系で見るには、鳥の目が必要で、鳥の目は、自分が信じる一神教の神様目線なのかもしれない。だから、欧米系の言語は一神教と相性がいいのかも。
対して、相対座標系は、基準点をたくさん変えて、いろんな視点を受け入れやすいのかも。多神教、八百万(やおよろず)の神様の目線。
なお、日本語脳、英語脳というのは、ゼロイチではない。
(喋る言語に関わらず)、日本語脳が強い人、英語脳が強い人の両極端の間に、スペクトルのようにいろんな人が分布しているんだと思う。でも、国民平均(集団平均)としてみれば、明らかに有意差があり、国民性という形で、行動傾向や、文化、慣習などが国によって異なるという現象を生んだりしているんじゃないかと思う。
So What ? (だから何?)
ブログタイトルの通り、私の単なるつぶやきです。失礼しました <(_ _)>
(2013/10/9追記)
思考の暴走ついでに。
鳥の目、虫の目、相対座標と聞くと連想するのは、アインシュタインさんの相対性理論。
工学部卒の私、高校時代は数学や物理は得意な方だと思っていたが、
E = mc2とか、シュレディンガー方程式とか、量子論とかの大学の講義についていけなくなり、化学工学を専攻。その後、研究者・エンジニアよりも、営業の方が自分に向いてそうな感じがしたので、10年以上営業の仕事をしている。
昔挫折した、一般相対性理論、特殊相対性理論、もう一度勉強してみようかな・・・
相対性理論(Wiki)
このサイト(わかっても相対論)、面白そうだ。
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