2016年11月30日水曜日

(354) 出ている杭である事に気付かれない

同調圧力が強い日本では、『出る杭は打たれる』傾向が強い。
 
松下幸之助さんの名言、『出る杭は打たれるが、出すぎた杭は打たれない』
これは、日本の戦後の復興期、高度経済成長期までは、本当にその通りだったんだろうと思う。
 
しかし、近年、そのパラダイムが変わってきている、というよりも、先祖返りしている気がする。
 
賛否両論あるかもしれないが、「出すぎた杭」的な人達、例えば、
ホリエモン、島田紳助さん、イチローさん、松井秀喜さん、橋下徹さん・・・
おそらく、ネットが発達しすぎて、日本の匿名の世間が以前よりも力を持つようになったので、
出すぎた杭も、ミスを犯すと揚げ足を取られて、徹底的に打たれてしまう、そういう時代になっているように思う。
 
「出すぎた杭」の別の例として、例えば、
ビートたけしさん、さんまさんの二人を考えても、
お二人は、『キャラ』として毒舌を吐いたり、『やりたい放題やっている』とテレビや雑誌等で「演出」されているだけであって、お二人は世間の特徴を知りぬいていて、一線を越えた発言はしない、そういう知恵を持っておられる気がする。
 
何故、日本では、
「一度出すぎた杭を徹底的に世間が持ち上げて、ある時突然、手のひらを返したかのように徹底的に攻撃する」
みたいな現象が起こってしまいがちなんだろうか?
 
多分、『お上の無謬信仰』が、我々日本人の多くに刷り込まれているからだと思う。
参考記事 : (158) ソーシャルスタイル
 
どうすればうまくいくのか?
 
この記事でもチラッと時代劇について書いたが、もうご先祖様達が、ヒントを我々に残してくれていたのかもしれない。お上の無謬信仰の擦り込みという、悪い所だけを見ていたが、つい最近、時代劇の良さを再発見した。
 
(一見して)「出ている杭である事に気付かれなければいい」
 
水戸黄門では、御老公様は「越後のちりめん問屋のご隠居」として放浪の旅をし、
暴れん坊将軍では、吉宗公は、め組の人達から「新さん」「新の字」と呼ばれているし、
遠山の金さんでは、江戸町奉行が「遊び人の金さん」だし、
必殺仕事人では、中村主人は奥さんと姑の菅井きんさんから、「ムコドノ↑」とからかわれていた。
名探偵コナンでは、コナン君は一見したところ普通の小学生だ。
 
しかし、これらの5つの例、全てに共通しているのは、主人公の周囲に、自分の本当の姿を良く知っていて、世間には出る杭である事を隠している事も含めて理解してくれている、素晴らしい優秀な人達がいて、その人達と信頼関係で繋がっている事。
 
水戸黄門なら、助さん・角さん・飛び猿・お銀・うっかり八兵衛
暴れん坊将軍なら、北島三郎さん
コナン君なら、凄い道具を作ってくれるおじいちゃん・・・
という風に。(実際の姿をイメージしたら、それ以外にも理解者は大勢必要だろうけど)
 
アメリカは、1% vs 99%の対立が象徴するように、優れた人1%の人は、それを堂々と表に出して、1%の人も99%の人も、それぞれがそれぞれの立場を明確にする文化だが、多分、日本はそうじゃない。それを「良い事」と思うか、「おかしい」と捉えるかは人それぞれだが、今の時代、嫌なら別にどこの国に住んだっていいんだから、本当に日本が合わない人は、海外に移住すればいい。
 
でも、日本の時代劇、若い人にだって好きな人は結構多いはずだ。そういう、庶民目線で、偉そうにしない人に魅力を感じるのは、日本人だけではなく、多分世界共通。海外だって、例えばノーベル賞物理学者のファインマンさんのような人がいる。ファインマンさんが、日本に興味を持ってくれたのは有名な話。
 
どんなに優秀であっても、謙虚さがない人は、どこか人としての魅力に欠ける部分がある。これは日本だけではなくて、多分世界共通。
 
そして、日本で、同調圧力という息苦しさと同時に、どこか気楽で、安心できる雰囲気があるのは、多分この「謙虚さ」を良しとする感覚を、大勢の日本人が持っているからだと思う。
 
そういう、日本人が昔から当たり前に持っている素晴らしいものを忘れないようにしたいと、私は強く思う。

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