2016年11月29日火曜日

(347) レミゼラブルの中の「世間」

レミゼラブル、5月半ばのチケットが取れた。今度帝国劇場に見に行く。超楽しみ。
 
多分、あまり期待し過ぎない方がいいとは思っている。何故かと言うと、英語を和訳する事で、どうしても元の英語のニュワンスや世界観が変わってしまうから。日本でロングランしている、ライオンキングのように、世界観も日本流にアレンジする所まで意訳してしまえば話は別だが、Mamma Mia!と同様、世界観は崩せないという制限がある中での和訳には、多分限界があるだろう。その中で、どこまでプロの方達がどういう和訳をなさっているかが、自分としては、大いに興味がある。
 
さて、「世間」というのは、日本だけの特殊な文化なのかな、と思っていたが、映画のレミゼラブルで、「世間」的なシーンが結構あちこちにあって、驚いた。実は、近代化される前のヨーロッパには、日本と同様の(出る杭は打たれる的な)「世間」、つまり、同調圧力があったらしいという説を聞いた事があるが、それを裏付けているような印象を受けた。
 
例えば、
At The End Of The Day
 
(若くて美人の?)ファンティーヌに対して、女工達がイジメを行い、ファンティーヌが"It is none of your business"(大きなお世話よ!!)とカッとなって喧嘩になってしまうシーン。出る杭は打つ、同調圧力的な、日本人的な嫌らしい感じのイジメそのものだと感じた。『世間』で起こる「出る杭打ち」の典型的な現象。
 
それ以外にも、
Turning
バリケードで無念の死を遂げた若者達の遺体が並んでいるのを、年配の女性達が井戸端会議しているような感じで、「お上に刃向かうとああなっちゃうのよ・・・、何やっても無駄なんだわ・・・」みたいな感じで歌うシーン。これも、どっちに転ぶか解らない時には、みんな黙って日和見を決め込んでいるのに、結果が出た後、負けた者に対しては非情になるのに、強者に対しては媚びへつらう、みたいな、(匿名の)『世間』の特徴を思い起こす。後講釈だけがうまい人達(批評家)は、日本には数えきれないほどいる。
 
前の記事で、最後まで生き残ったのはMariusとコゼットだけと書いたが、小悪党として表現されている、酒場の主人と奥さんは、皆には嫌われつつも、最初から最後までそれなりの金を持って生き抜いた様子で、Mariusにぶん殴られはしたけれども、その後も生き続ける。もちろん、いろいろ誇張されてはいるが、「世間を良く知っている」という点では、酒場の夫婦は登場人物の中でNo.1だろう。日本でも「世間擦れ」という言葉があるくらいで、世渡りが上手すぎる人はあまり好かれない傾向がある気がするが、でも、そういう生き方の人の方が長生きしやすいというのも、また人生の真理なのかもしれない。
 
こういう目で見ると、レミゼラブルの全体を通して感じるのは、『ある意味で不器用な生き方しかできない人達』が、(正体の見えにくい匿名の)世間に対して信念を持って戦い、必死に生きた、その物語性。それに心を打たれるのかもしれない。
 
舞台となったフランスは、現在は、もうほとんど日本で言う所の「世間」みたいな同調圧力は存在しないんじゃないかと思う。それは何故かと言うと、レミゼラブルで表現されている時代を乗り越えて、「個人が自由に生きる事」を大切にしているからなのかもしれない。
 
はてさて、未だに同調圧力が強く、「いじめ」問題の根本的な解決に悩み、村上春樹の「多崎つくると・・・」がベストセラーになっている事から想像するに、自我の確立がおぼつかない人が大勢いるような気がする我々日本人、将来どういう日本にしていくのがいいんだろう・・・
 
*多崎つくると、私はほぼ同年代(アラフォー)。村上春樹さんの本は好きで、小説自体はとっても面白かったが、「そんな、昔の若い頃の事を美化しても・・・、だって、もう自分はアラフォーの、お腹がぽっちゃりしたオッサンだし・・・」って、私自身は、身も蓋もない感想を持ってしまった。
 
ま、とりあえず帝国劇場のレミゼラブルを見て、楽しんで、カラオケでも歌いながら、のんびり考えよう(*^_^*)
 
今年はレミゼラブルがもっと話題になってほしいな。

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