アルジェリアの大手マスコミの実名報道の件で、今日は1日中、どうにもならないほど、私の心の中に怒りの感情が渦巻いている。
これまでの経験上、もうこれはどうにもならない。
私の脳が、怒りを感じているのは、もう、抵抗してもしょうがない。
一方で、ヴィパッサナー瞑想では、そのありのままの自分の姿を観察し、ありのままを心の中で唱える事を推奨している。
この考え方に則って、怒りを感じている自分の気持ちをそのままこのブログにぶつけている。
所詮、私の独り言だ。中年のオッサンの独り言、匿名で言いたいこと言わせてもらっているが、このブログを見て下さった方には、どうかお許しいただきたい。
以前の記事を読み返していたら、(58) 「怒哀喜楽」(喜怒哀楽は順番が違う)を見つけた。
*ちなみに、「怒哀喜楽」(順番にご注意を!)でググっていただくと、本日現在、首位表示されてます。
自分で自分が書いた文章を読んで、少し怒りがおさまった気がする。
アラフォーのオッサンとはいえ、まだまだ若輩者だが、約40年間生きてきた経験上、『怒』の後には、『哀』が来て、その後必ず『喜』が来て、そして『楽』が来る。
これもまた経験上、最初の『怒』が大きいほど、その後の感情も大きい。
人間誰しも感情を持っている。
男も女も関係ない。(多少、女性の方が外に現れる感情の起伏が大きいような気はするが)
人種も、国籍も、年齢も関係ない。
みんな感情がある。
怒りたいときには怒り、
哀しみたいときには泣き、
喜びたいときには笑い、
楽しいときにはリラックスする。
それでいいと思う。人間誰もがそうある事ができれば、世界は平和に近づいている証だと思う。
怒り、哀しみを感じている時、その怒りや悲しみを他責の方向に使ってしまうと、結局は巡り巡って自分に返ってくる。世の中も良くならない。私の理解では、『情けは人の為ならず』の本来の意味は、こういう事だと思っている。つまり、怒りや哀しみを感じた時の辛さは、可能な限り、自分や、自分の身内で昇華し、他責のエネルギーを極力発生させない事が大切だと思う。
身体への暴力は取り返しがつかない。
奪われた命はもう戻ってこない。
言葉の暴力はダメだが、少なくとも、昔に比べて、今の日本は身体への暴力は減っていると思う。言葉の暴力も減らしていく必要はあるが、身体への暴力が減っている事自体は、日本人の先人達の血と汗と涙のおかげであり、そこは感謝した方がいいんだろう。
生きとし生けるものの悩み・苦しみがなくなりますように。
生きとし生けるものの願い事がかなえられますように。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
(慈悲の瞑想より)
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