2016年11月22日火曜日

(212) 躁鬱病発症時の振り返り(12年前)

この匿名ブログ、やっぱり凄く便利だ。
このブログがなかったら、もしかしたら一生心に秘めたまま死んで行ったかもしれない、
俺自身の躁鬱病発症の時の事を、比較的気楽に書けてしまう。
書いてしまえば、案外、気にしていた事って、大した事ないように思える事って、多いのかもしれない。
 
さて、俺自身の発病は、25歳の時、ちょうど12年前の5月だ。
新卒で入った会社(茨城県)で、何の迷いもなく、3年半の間夢中に働いたが、
25歳になって初めて付き合った彼女に振られてしまい、自分の人生が解らなくなった。
挫折を知らないエリート(笑)は脆い。
 
記憶があいまいな部分もあるが、思い出してみる。
 
失恋のショックから抜けられない2000年の5月、何故、仕事しているのか解らなくなり、うつ病状態に。
睡眠が1~2週間全然取れなくなり、会社には行くものの、
引き出しを開けてはファイルを出し、それをしまい、また引き出しを開ける・・・
みたいな感じで、何をしているのか自分でも解らない。
また、今ほどには、「うつ病」という病気が知られておらず、俺自身、
それがうつ病であると知ったのは、その後の休職中に本を読んでからだった。
 
もう、仕事辞めると心に誓い、約10歳年上の、一番信頼していた上司に、泣きながら辞める事を告げた。
俺の決意が固いと理解して下さったんだろう、その上司は、引き留めなかった。
その翌日(金曜日?)、その部で一番偉い、部長さんが確か、飲みに誘ってくれた記憶がある。
そこでは引き留められたが、俺の方の決意は固く、揺るがなかったんだろうと思う。
 
その部長から別れ際、「お前、それじゃどこ行っても通用しないよ」みたいな事を言われた気がする。
もう、完全なパンチドランカー状態だったので、「そうだと思います」と言って、
その部長がタクシーに乗るのを頭を下げて見送ったと思う。
 
その後会社の寮の部屋に帰った夜、もう、「眠れない」事の辛さにどうしても耐えられなくなった。
多分、あまりの苦しさに、死ぬ事も考えたと思う。
でも、どうしても死にたくなかったので、救急(119)に電話をかけた。
「どうしても眠れないので、睡眠薬がもらえる所に連れてって下さい」
と、多分電話でお願いしたと思う。
 
そしたら寮に、パトカーが来てくれた。
今になって思えば、「眠れないくらいで救急車呼ぶなよ」「そうなる前に、医者行っとけよ」と、
自分自身にツッコミを入れたいところだが、当時は、精神科の敷居は、それほど低くなかった。
何より、俺自身が、「俺は、精神科になんてかからない人間だ」と思っていた気がする。
 
さて、パトカーに乗って、大きな警察署へ。
そこで警察官の人達に、「私の人生何だったんでしょう」って、悩み相談してもらった気がする。
数十分したら、勤めていた会社の工場長と、現場の副長の方2人が、警察署に来て下さった。
多分、真夜中の12時過ぎだったんだろう。今思えば、本当に工場長と副長にはお世話になった。
 
工場長の車に乗せていただき、
「もう、私の事、現場の皆様には忘れてもらえるようお伝えください」みたいな、
どん底度Maxのお願いを一言して、だんまり。
でも、睡眠薬はどうしても欲しい事は言ったんだろう。
工場長が、どこかの病院に連れてって下さり、そこで睡眠薬の処方を受けた。
寮の部屋に帰って、その睡眠薬を服用。
そこで、やっと寝れた。
 
この睡眠が、躁転のトリガーになったんだと思う。
 
30歳になるまでの間、この日を、俺はずっと記念日にしていた。
「人生のリセットボタンを、俺はあの時押したんだ」と、強く思い込んでいた。
それぐらい、この睡眠中に、俺の脳に起こった事の、俺にとっての衝撃は想像を絶するものだった。
 
以下は、俺のその日の睡眠中の記憶。
頭の中で、さまざまなものがものすごいスピードでファイル整理されていくような感覚があった。
同時に、それまで麻痺していた感覚が突然蘇り、相当な量の涙が出た。
多分一生、後にも先にも、涙がここまで出たのは、この時だけだと思う。
小学校の時の記憶、中学校の時の記憶、それまでの人生でのありとあらゆる記憶が、
時系列を無視して物凄い速さで蘇り、それぞれの意味を、解釈していた。
「あの時の、あの友達の言葉はこういう意味だったんだ」
「ここで経験した事とあっちで経験した事は繋がっていたんだ」
みたいな、たった一晩の睡眠だったんだと思うんだが、俺にとっての体感時間は、膨大だった。
 
で、目が覚めたら、凄くすっきりしたが、「多弁」になっていた。
「こんな早い速さで、これだけの内容の事が口から出て来る」という自分自身を、
「俺、生まれ変わっちゃった」と思ってしまった。
 
翌朝、まずは、会社の産業医の方が寮の部屋まで来て下さり、診察してくれた。
その後、寮へ俺のオヤジが、車で迎えに来てくれていた。
そのままオヤジの車に乗っけてもらい、当時神奈川県に住んでいた、両親宅へ。
家でも、両親に「多弁」全開だったと思う。
 
その夜は睡眠薬がなかったので、神奈川の両親宅の2階で寝ようとしても、睡眠は普通の感じじゃなかった。
前日同様、「寝るだけ」なのに、何故か「死の恐怖」みたいなものを感じたかすかな記憶がある。
その日、一階からは、オヤジの必死の声が聞こえて来ていた。
大手製薬会社のサラリーマンだったオヤジ、多分、知り合いをいろいろ探してくれて、
俺の症状に会った、精神科を探してくれていたんだろうと思う。
 
翌日(?)、昭和大学藤が丘病院の精神科へ。
その時には、多弁の症状だったと思う。
そこで「ロドピン」を処方され、その場で飲んだ。
そこからは通院を何日か繰り返したが、多弁の症状は、いきなり収まるものではなく、
家では、ネットで「うつ病」「躁鬱病」関連のサイトをプリントアウトし、そこに字を書きなぐっていたと思う。
診察の時には、100枚近くの枚数になっていたであろう、そのプリントアウトを持って、先生の診察を受けた。
 
結局、両親と一緒に住みながら、躁状態は徐々に沈静化。
約2カ月の間、会社は有給扱いにしてくれた。
 
7月頃に医師の了解が得られ、茨城に戻り、職場に出勤。
でも、もう耐えられなかったので、辞表を正式に提出し、受理された。
9月末付けでその会社を退職。
 
両親の家に戻って、就職活動。
幸い、今の外資系企業に採用してもらい、12月入社。
履歴書の空白期間は、10~11月の2カ月で済んだ。
「再就職手当」ももらう事が出来た。
それから12年になるが、そのまま今の会社で働いている。
 
25歳の時の俺にとっての衝撃は、相当なものだったんだろうと思う。
俺は、脳がおかしくなってしまったに違いないと思い、1万円くらい払って、
脳のCTスキャン(?)を撮ってもらった。
どっか出血したか、脳の形が変わったと思ってしまうくらい、
とにかく、俺の脳には相当な負荷がかかったんだろう。
 
あんな事、もう2度と経験したくないが、
多分、この躁鬱発症を機に、俺の脳が相当な成長をしたというのも、多分また事実だ。
体感的にだが、この過程で、それまで幼かった精神年齢が、一挙に5歳ほど上昇した気がする。
 
「男子3日会わざれば刮目して見よ」という諺があるが、まさにその状態。
多分、躁状態発病によって、周りに迷惑をかける事も多いけれども、
本人にとって、脳が、かなり濃度の高い経験をすると思う。
 
俺の仮説だが、うつ状態の期間中、セロトニン(?)の分泌量が極端に減少する一方で、
セロトニンのアクセプターの方は、少ないセロトニンを捕まえようと、活性化、増量化。
そこへ、睡眠薬によって睡眠が取れた事で、通常量のセロトニンが分泌された。
尋常じゃない程、セロトニンを求めていた、大量のアクセプターが、突然、セロトニンがもらえ、大喜び。
 
その時に生じる強烈な感覚が、上記した、俺が感じたものの正体じゃないのかな、と今振り返って考える。
 
もうひとつ、興味深いのは、俺がこの話を振り返れるようになった今が、
ちょうどあの時から「12年」ぴったりである事。
 
還暦(60年)、12支(干支)、12星座、占い。
やはり、「12年」という数字には、何かあるのかもしれない。
これもシンクロニシティなのか??

8 件のコメント:

  1. 25歳の時の初発から17年。結婚もできたし子供もいる。それなりに色々あったが、プライベートは幸せな人生だ。

    しかし、仕事とキャリアは、ついに行き詰まりを迎えてしまっているように正直感じる。

    他の人から見ると、社会人として厳しい世界で生き抜くにはメンタルが弱い、というのはおそらく最初の会社を辞めた25歳の時に、既に結果として出てしまっていたんだと、今は振り返って感じる。

    自分なりに頑張って誤魔化しながらサラリーマンを続けてきたが、あと何年続けられるか。

    自分に限って考えると、躁鬱というのは病気というよりも、現代社会への適応が難しい自分の生来持っているものが社会への適応を拒んだ結果として現れているように思える。

    いつの時代にも社会への不適応者は一定割合で存在したし、これからも存在していく。

    理不尽であっても歯を食いしばって社会への適応を続けている人が数え切れないほどいる、その一人が私。だが、お世辞にも仕事の面では上手くいっていると言えない42歳の自分のキャリアと現状。だが、生きていくには働かねばならない。

    こういう悩みを持たずに皆が幸せに生きられる世界が理想だが、多分人が人である限り、そういう完璧な世界は実現しないんだろうなぁ。

    返信削除
  2. 双極性障害の方は、ネットでの情報発信と相性が良いのかもしれない。

    気分に波があるので、常に他の人との社会的な繋がりが必要な仕事よりも、自分のペース、特に軽躁状態の時に一方向的に情報発信できるネットやブログ。

    泰葉さんの「どうにも止まらない」状態を見て、改めてそう感じた。

    だが、北杜夫さんの時代とは違い、情報が過度に伝わってしまう時代なので、もう世間は「泰葉さんのような人は厄介なので相手にしない」「躁鬱(双極性障害)を持つ人は厄介で、関わってはいけない。面倒に巻き込まれる」そういう認識が強まっているように思う。

    双極性障害は世間には隠す、それが無難というかつての常識が復活するのでは?

    そういう意味で、泰葉さんの今の暴走は罪深いんだが、周りも、本人も止められない。一部の炎上関係者は多少の金になるから、火をくべ続けるだろう。泰葉さんが灰にならないことを祈る。その時に鬱の波が来てしまうと、本人が一番辛いだろう。残念ながらやってしまった事が罪深すぎるので、同情の余地はないが。

    返信削除
  3. 昨日、約1年半続いた慢性的な鬱から抜け出せた実感がある。(というか、そう自己洗脳しようとしている)

    海外出張が約2年間なく、時差ボケによる軽躁発動もないまま、先の光が見えない暗闇にまとわりつかれるような鬱がどうしても治らなかった。

    一昨日は睡眠時間は過眠、昨日はマグレでパチンコ大勝ち、その興奮もあってか、夜寝られずに1時過ぎにハルシオンを服用。実睡眠時間4時間弱だが、長らく経験していなかった海外出張時の軽躁状態の感覚。

    もしかすると、意図的に睡眠時間を短くして数日過ごす事で、セロトニンとアクセプターのバランスに刺激を与え、鬱からの躁転に近い現象になったのかもしれない。

    躁状態を抑える方法は過去何度も経験したのでノウハウを持っていたが、鬱を持ち上げる方法は全く解らず、2年間苦しみに苦しんだ。

    今は明らかにやる気が増している。次に鬱に悩む時、このメモ書きを参考にして対処しよう。職場は先行き怪しく、仕事も無理難題が重なってくるのは間違いないので、鬱落ちは恐らくまたやってくる。

    まずは、やっと手に入れた軽躁状態の中位レベルでの安定化コントロール、それを可能な限り長く維持する事。

    返信削除
  4. 翌日、早くも軽躁がなくなってしまった。躁うつの波がもう少し躁側で続いてくれるかと思ったら、どうやらもうエネルギー切れらしい。

    若さがなくなったからなのか?

    だが、過眠を続ける事、スマホゲームが良くなかったのは間違いない。自分の場合、睡眠不足は必ずしも悪いことではない。

    テニスの再開も、ダメ元でやってみよう。パチンコもたまに行く。仕事や人生の悪い想像をせず、何かに夢中になる時間の確保は絶対必要。

    それがテニスとパチンコが一番自分に合ってると昨日感じた事は自分の中で大切にしたい。

    返信削除
  5. 軽躁の感覚が全くなくなった。むしろ鬱にまた簡単に落ちそう。過眠して布団でグズグズ考える時間を作ると、また鬱と悪い想像のループに元戻りだろう。

    スマホゲームはしない事と、寝るのを遅めにする事、仕事でもこのブログへのコメントでもいいから、覚醒したまま頭を使う事。それと週末の運動。それでも鬱落ちしてしまうと辛いが、なんとか踏みとどまりたい。

    もう一度軽躁に持ち上げられるといいんだが、数日の睡眠不足を経た後の深い睡眠が必要?なかなか難しい。このコメントの後に、軽躁状態でのコメントが書ける日が近いうちにやって来る事を祈りつつ。

    返信削除
  6. 恐らくわずか1日で鬱落ちに向かったのは、今日の約9時間の仕事が気力を奪われるものだったから。達成感が小さいが振られてくる客からの要求への対応、わからない事だらけのこれからのトラブル処理。

    3日3月3年。取り敢えずあと3か月、次いで3年は、仕事に慣れて覚えて行くしかない。その期間中に、時々軽躁を引き起こせるかどうか。うつ状態のままでは、辛くてどうにもならない3ヶ月、3年になってしまう。

    返信削除
  7. テニスを再開した。月曜日のパチンコ屋での決心から5日。人生まだまだ先は長い。テニスは辞めないで続ける。継続は力。また疲れてテニスを辞めたくなる時もあるだろうし、天気や出張でできない時もあるだろうが、とにかく続ける事が大切。

    油断すると、また仕事での厳しい未来をつい想像してしまい、布団で寝逃げしたくなる。当たり前だけど、そんなに急に事態は好転しない。

    何度も希死念慮に悩まされ、鬱を理由に休職したいと思い、自分で心療内科にしばらく入院した方がいいと思い、子供達や妻に甘え続けてしまった約一年間。

    長く続いたドン底からやっと這い上がろうとモガき、足掻いている今。油断すると簡単に落ちる。心身共、怪我や骨折をしてしまえばあっという間にまた奈落の底へ落ちる恐怖。

    仕事は光を見つけるのが難しく、お袋には寂しい思いをさせ、田舎の家はどうにもならない。明るい希望があるとは到底言えない状態。その気持ちを正直にここに吐き出している今。

    それでももう、ドン底の気持ちが続く所から、どうしても這い上がりたい。俺は弱い。でも生きていかなきゃ。

    返信削除
  8. 結局うつ状態からの完全な回復は難しく、仕事は休職。その後肝炎で入院までしてしまい、会社からは退職勧奨を受ける事に。

    仕事は気持ちを切り替えて新しいところを探す事に。だが、自分が何をやりたいのか、どういう仕事をしたいのかを決めないと、今後もまた同じ事を繰り返してしまう。

    さあ、来年からの大殺界の3年間、43歳という年齢で、この(私にとっては)とても難しい課題と向き合わねばならない。

    周りに合わせすぎて、嫌だとハッキリ言わず、世間の顔色ばかり気にして生きてきた40年間のツケが一挙に押し寄せてくる。

    逃げずに受け止め、自分がやりたい事を探し続ける。光がいつか見えますように。

    返信削除